半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

これは革命である:モバイルハウス 三万円で家をつくる



   「マトリョーシカ的日常」というブログを書いていらっしゃる局長様(id:kyokucho1989)のこの記事に食い付いて本を3冊も譲っていただいたので、1冊目の感想を綴ります。書くのが随分と遅くなってしまいました…。

◆モバイルハウスという「新しい家」


   タイトルだけで既に惹かれるものがあります。家というと人生最大の買い物と言われるように、高額なものであるという前提を私達は刷り込まれています。そこへきてこのタイトルは大いに挑戦的であり、中身が気になろうというものです。

   著者の坂口恭平氏は建築家を志していたものの現在の建築界に疑問を感じ、路上生活者の家を調査することをフィールドワークとしながら多くの著作を出している人物です。「独立国家のつくりかた」という本で話題になったので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

   本書は著者が隅田川沿岸で見つけた一軒の路上生活者の家をきっかけに、車輪の付いた動く家、「モバイルハウス」を自分の手で作っていく過程を描いたものです。

   既存の家の在り方に疑問を抱くくらいですから、著者の思考態度には対象を根源から見つめ直す視点があり、常識に囚われがちな凡人(私)にとっては刺激的で好感が持てます。著者もそれを分かっている節があり、読者を煽るような革命家然とした雰囲気があります。また本筋とは関係ありませんが、著者の書く文章にはどこか小気味良いリズムがあり、どんどんと読み進められます。


◆本書が問う「家の在り方」

   さて本書では、家賃を獲得しようとする土地所有者たちの視点だけでしか規格や家賃が考えられていない賃貸住宅、また持ち家も何千万円も払って土地に縛られた家を購入するが、本来人間が土地を私的に所有することの正当性を誰も論じることができないという、既存のシステムに対する疑問が主題の一つとなっています。

   私達は既に出来上がっている仕組みに対する疑問はあまり持たない(ように仕向けられている)傾向にありますが、考えてみればこうした選択肢は誰かに都合が良いように予め用意され、その範囲の中で自由に選んでいると思わされているのが現実です。

   私も本書を読む前から、何十年も借金を返し続けなければいけないローンを組んで、決まった場所に大金をはたいて家を持つという在り方に疑問を抱いていました。こういうことを書くと色々な人に怒られそうですが、地震を始めとした災害や原発事故のリスクを無視できないこの国で、身の丈に合わない借金を抱えて土地に縛られるというのはどうにも二の足を踏んでしまいます。かといって賃貸に住み続けると家賃を払い続けないといけないし、礼金というよく分からないお金も払わされたりと、行くも地獄、戻るも地獄状態です。

   そもそも家の値段は何故あんなに高額なのでしょうか。ローンという仕組みも銀行が合法的に搾取する現代の奴隷制のような側面があります。さらに言うなら、お金という仕組みも誰かの都合が良いように作られた仕組みに過ぎません。



   少々筆が滑りました。

◆システムを外れてみると面白いよ

   面白いのは、モバイルハウスというのは車輪が付いているので土地と定着しておらず、現行の法律では建築物とはみなされないということです。

“つまり、モバイルハウスを建てるには、建築士の免許も不要で、さらに申請をする必要もなく、不動産の対象にもならないので固定資産税からも自由である。”
“モバイルハウスはもちろんエンジンがあるわけではないので自動車ではないが、自動車で牽引することができるキャンピングカーとは言うことができる。駐車場に家は建てられないが、キャンピングカー的なものであれば駐車することができるはずだ。”

   こうして車輪の付いたモバイルハウスを自力で造り、駐車場に置くということで三万円で家をつくることが可能になります。このように、既存のシステムから外れてみると意外な発見、もう一つの現実と呼べるような世界が存在していることに気付くことができます。これも本書を読んで発見できることです。

   一見突飛な発想でも、こうして実践している人がいるという事実がここにあります。

   前述したような理由から、私は気に入った場所に自分で家を建てて住めれば面白いと密かに考えています。聞いた話だと数百万円で建てられるようですし。その土地に住めなくなったらまた何処かで建てればいい。古民家再生という手もあったりします。それが本書を手に取った理由の一つですが、ここまでいかなくても自分で家を建てるというのは十分実現可能なように思えてきます。当たり前と思っていることにも疑問を持つ、という点でも面白い本なので、一読してみる価値はある本です。






自分起点の英語学習という発想

   随分とご無沙汰してしまいました。

   前回の記事の続きを書こうと思います。今更かよ!という突っ込みは甘んじて受けます。
だいぶ日が経っているので記憶が薄れていますが…。



◆留学指導者の講演

   東進ハイスクール安河内哲也氏に続き、留学指導を手掛けているアゴス・ジャパンという予備校の代表取締役である横山匡氏のお話がありました。



   まずは、何故英語を学ぶのか?という問いかけから。
人によって理由は様々かと思います。学生の頃は卒業、受験のため、社会に出れば仕事で必要、海外の人とコミュニケーションしたい、日本だけでなく世界のニュースを知りたい、など…。

   学生の頃はとかく受け身で後ろ向きな、そして社会に出てからもどこか義務感のような面が残りがちな英語の勉強ですが、横山氏曰く、英語を学ぶのは「好きなところで好きなことができる可能性が少し広がる」から、だそうです。
   これには一理あります。英語を話せれば自分の居場所を日本の外に広げることができます。場所が広がれば、自分の好きなことができるチャンスも広がるでしょう。自分の好きなものを探し、出会い、目指し、近づくという過程を現実のものにするために英語が役に立つという発想です。自分起点の能動的な動機に基づく学習。楽しさや夢がないと人間なかなか物事が続かないものです。

◆日本と海外の違い

   上記に関連して、日本語の「教育」と英語の「education」という言葉について、語源から比較した発想の違いという話題。教育は読んで字の如く、「教え育てる」からきています。対してeducationは「内から引き出す」という意味からきているそうです。まさに日本と海外における教育方針の違いをそのまま指しているかのような違いに、成る程と思わされます。
   さらにこれは定食とビュッフェの関係に例えられます。予め食べるものを決められたおあつらえ向きの定食と、自分で好きなものを選択し組み合わせを作るビュッフェ。こうして身近なもので例えられると分かり易いし興味深いですね。

   そして重要なのは、どちらが良い悪いではなく、それぞれが持っているもの、持っていないものの両方を見るということです。人はとかく自分に無いものを求めて無いものねだりをしてしまいますが、既に持っているものの価値も踏まえたうえで足りないものを埋める、あるいは補うという視点を持ちたいです。でないといつまでも終わらない自分探しの旅に彷徨うことになりそうですので。

グローバル化とは?

   いわゆる「グローバル化」についての考え方も参考になりました。昨今の世の中はグローバル化が声高に叫ばれ、私達はしょっちゅうその見えない圧力に弄ばれがちです。しかしあくまで「私」という人間が世界をどう捉え、対処していくかが問題であり、世界のグローバル化が先に置かれる訳ではありません。従って、「私」の可能性を広げるために自身のグローバル化を先に考えるべきであって、その結果世界がグローバル化するというのが順番でしょう。生き方は他人に強制されるのではなく自分で決めるというのが本質のはずです。意訳するとこんな感じでしたが、これも成る程といったところです。
   根底にあるのはやはり自分起点ということでしょう。海外に行けばこの発想は当たり前のように思われます。

   その他色々話題はありましたが…端折ります。概念的な話が多く、では具体的に何をすればいいの?という感想が聞かれそうですが、そこについてもヒントがありました。それは、「将来なりたい自分を妄想すること」、そして「明日それができないのは何故か?を考えること」です。そうすれば今の自分に足りないものが見えてきて、それを埋めるために何をすればいいのかが見えてくるでしょう。妄想力万歳‼︎
   お話の中で、「The best way to predict your future is to create it.」というかの有名なドラッカー氏の言葉を引用されていましたが、1つの真理でしょう。


   …さて長いことブログ更新をサボってしまいました。理由は沢山挙げられますが、書かなかったという事実に変わりはありません。これからぼちぼち再開していきたいところです。困るのは書かないとすぐ文章力が落ちること。サイヤ人は瀕死の状態から復活すると驚くべきパワーアップを果たしますが、文章力は瀕死になると落ちる一方で、むしろ書き続けないと維持すらされません。サイヤ人のようにはいきませんね。またゼロからのスタートという気持ちでいこうと思います。

   というわけで(?)メリークリスマス!



日本の英語教育が変わる⁉︎ − 2020年に4技能試験へ移行

   先日英語に関するセミナーを聴く機会があったので、その覚え書きです。
 

◆英語カリスマ教師の講演

   登壇者の1人は安河内哲也氏。東進ハイスクールの英語講師で、いわゆるカリスマ講師として有名な方です。
   講演のテーマは「本当に使える英語とは」という切り口です。予備校講師というプロだけあって、お話はライブ感に溢れていました。冒頭から英語に関するクイズを交えるなどして聴き手にも参加を促し巻き込んでいき、ご本人の性格もあるのでしょうが終始テンションが高め。語り口は明快でスクリーンに映し出されるスライドも時事ネタを織り込んだ軟らかい「ここ笑うところ」というのを仕込んでおり、聴き手を飽きさせないプロの仕事を垣間見た思いです。
 
   話の中では日本の英語教育が中高6年かけても英語を話せるようにならない問題点が主として取り上げられました。曰く受験突破という目的と受験業界が英語教育を歪めているという指摘です。これには私も同意するところでこのブログでも過去に言及したことがあります。
 

◆日本の英語教育が、変わる

   そしてそんな日本の英語教育が、これまで「変わる、今度こそ変わる」と狼少年のように何度も言われて変わらなかったのが今度は本当に変わります!というお話に。
 
 その中心になるのが大学入試センター試験に代わる新しい入試において、英語は4技能を総合的に評価できる問題に変わるというものです。既に報道されていますが、センター試験は今後廃止され、2020年度から大学入学希望者学力評価テスト(仮称)が導入される予定で、このタイミングで変更するというものです。名前長い…。(更に、高校までに修得した学習成果を測るために高校2,3年生を対象に2019年度から「高等学校基礎学力テスト(仮称)」を導入する予定です。)
 
 4技能とはあまり馴染みのない言葉ですが、LRSWすなわちListening(聞く)、Reading(読む)、Speaking(話す)、Writing(書く)の4つを指します。これまでの英語教育はReadingとListeningに偏っており、これは入試問題が正誤の判定が容易な読解、文法、リスニング問題に安易に偏重していたことに起因していました。これを打破し、「使える英語」を生徒に身に付けさせるためにメスが入ったということです。
 

◆壊滅はチャンス

 これによって従来の受験英語ビジネスは壊滅することになり、これまでそれを推進する側にいた予備校講師の自分も危ういなどと安河内氏は自虐的に仰っていましたが、「壊滅はチャンス」ということも同時に仰っていました。これまでの体制が崩れ、新しいものに適応できる者が大きく伸びることができるということでしょう。ともあれ日本の英語教育は大きな転換点を迎えるようです。
 
 要点としては、これからの英語教育改革は以下の5つが柱になるとのこと。
 1 偏差値からCEFR
 2 解説から活動へ
 3 LRSWの4技能が中心
 4 多様化
 5 問題文法から使用文法へ
 
 
 4技能という言葉、そして大学入試制度が大きく変わるというのは寡聞にして知らなかったのですが、これが変革を促す特効薬になるのかどうか。旧態依然とした英語教育を受けてきた身として今後に注目しています。
 
 ※安河内氏の英語教育論は以下も参考になると思うので興味のある方はどうぞ。
 
 

ブログを始めて1年経ちました。

◆1年経った

   忘れるところでしたが、ふと気付くと昨日でこのブログを始めて丁度1年が経っていました。
 
   最初の記事がこちら。
 
   記事タイトル通りにささやかに始めて1年。「継続は力なり」というベタな感想を例に漏れず持つわけですが、まがりなくも続けてきたことで記事もそれなりに蓄積してきました。更新頻度は始めの頃はやはり張り切っていたものの、その後低空飛行で安定して推移しているので記事数としては誇れるものはありません。そしてジャンルを絞らず好きに書いているので分野は散逸していますが、広く浅く時には突っ込んで「世間を眺める私の観測所」を展開してきたというところです。
 
   最初の記事から当初のブログを始めた動機を振り返ってみると、
  • 書くことで思考をアウトプット
  • 日本語のお勉強
  • 日々の出来事や気持ちに生じたひだなどを記録したい
などとありましたので、1年経った所感をここに記しておきます。
 

●書くことで思考をアウトプット

   これは心掛けていることなので割と実践できていそうです。むしろダダ漏れに近いかもしれません。しかし考えたことをそのまま書くだけでは相手に伝わらないのできちんと言語化し、分かりやすく書かなければいけません。それがブログを書くことの意義であり、また自らを鍛えられる利点となります。
   「書くこと」については過去にシリーズでつらつらとしたためました。
 

●日本語のお勉強

   「伝わる文章を書く」という行為においては必然的に言葉を選ぶことになり、いかに適切な表現を用いるかと四苦八苦します。これだけで日本語の勉強になるので、書く、実践するというのは言わずもがな重要なことでありブログを始めたことで日常的に強化されている感覚があります。そして過去にも書きましたが、日本人なので安易な横文字やカタカナ語はなるべく使わないという自己規則を設けています。これも日本語表現の勉強になります。
   横文字やカタカナ語は使わないというのはブログ開設1ヶ月後に書いていました。
 

●日々の記録

   単にこんなことがあった、という個人の日記としての記事もありますが、過去記事を見返してみればどんな記事でも「この時はこんなことを考えていたのか」と振り返ることができ、「思考の記録」としての効用もあることが実感できます。これは蓄積型のメディアと言われるブログの利点であり、今後も続けることでコツコツ積み重ねていきたいところです。
 
 

◆最近のこのブログ

   平日のみ3日に1回程度更新の亀ブログですが、今後も細々と続けていくつもりです。最近少しPCページでの見た目を改変し、注目記事を10番目まで表示するようにしてみました。それまでは5番目まで表示でしたが順位に変動があまり無かったので、個人的にどんな記事が読まれているか把握するための改変です。
   するとちょっとした変化が起きました。しばらく観察していると6番目以降の記事は結構変動があることが分かったのですが、そのうち6番目以降から徐々に順位が上がっていく記事が出始め、あまり変動の無かった5番目までの順位に食い込み上位も変動したのです。恐らくはこれまで見えていなかった記事が可視化されたことで目に留まりアクセスを集めたのだと思います。こうした読む人の振る舞いが動的に体感されたのはブログ書きとしては興味深いことでした。
   詰まるところブログのデザイン大事だよっていう至極当然の結論です
 
   そして前々回の記事(本をいただきました。 - 半可通素人の漂流)で書いた、ブログ経由での本の譲渡。ネットを超えた現実の繋がりが構築できる場としてオフ会などは既に知られていますが、それに限らず物のやり取りや知的交流の場としてブログにはまだまだ未知の活用方法があるのではと感じられる出来事でした。少し大袈裟かもしれませんが、ネットの開放性、双方向性を活かしてブログを起点とした何かしらの渦を巻き起こしてみたい。
   今のところは素っ頓狂な思考を開陳して誰かの頭をちょっとくすぐる程度の存在です。
 
 
   思いつくままに書きましたが、1年なんてまだまだヒヨッコです。ネットの大海でプランクトンのように浮遊しながらしぶとく漂流を続けようと今は考えています。ちなみにプランクトンは自らの意思で水流に逆らって泳ぐことのできない浮遊生物という分類であり、自ら水流に逆らって泳ぐことのできる生物はネクトン(遊泳生物)と言います。そして水底に定着して生活する生物はベントス(底生生物)と呼ばれています。せめてネットの海深く沈められてベントスになってしまわないように精進せねば。
 

   ブログやってみると楽しいのでみんなやりましょう。

 
 

狂ってたのは、俺か?時代か?ー河鍋暁斎展を観てきた話

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   もう先々週になってしまいましたが、三菱一号館美術館で河鍋暁斎展というのがあり興味があったので観てきました。

   河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した日本画家です(河鍋暁斎 - Wikipedia)。戯画や風刺画が有名ですが写実の腕も巧みで画風は実に幅広く、底知れぬ才能をうかがわせます。
   暁斎という画家がいたことは浅学にして知らなかったのですが、私が実は妖怪好きであるということを聞いた友人に教えてもらいました。(ちなみに妖怪好きなのは小学生の頃にゲゲゲの鬼太郎にハマってアニメ放送と本を読み漁ったのが発端です。水木しげる先生は今でも尊敬しています。)友人のブログ記事は以下。他に鳥山石燕という画家も教えてもらったので今後勉強しようと思います。



   暁斎展の最終日間近だったということもあり会場は入場待ち列で並ぶ程の混雑でした。

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   これまで美術館など巡ったこともなかったのですが、少しは大人びた趣味も嗜もうという背伸びした気持ちもありつつ。実際に観てみると、やはり実物はもの言えぬ迫力があります。そして冒頭でも触れましたがコミカルな人物や動物の描写から仏教画、美人画までその画風の広さには驚くばかり。

   特に印象に残ったのが鯉の絵です。(私が無類の魚好きでバイアスが掛かっているという点を差し置いても)魚の動きの捉え方と静止画なのに泳いでいるような臨場感、そして水面に広がる波紋の表現がシンプルだけど奥深く、しばらく見入ってしまいました。有名な絵なのでネットで検索すると出てきますが、本物の力はやはり目の当たりにしないと感じ取れません。
   そしてどの絵を観ても目に特徴があるというか、命が宿っている印象を受けました。いわゆる目力ってやつですが、そういう俗な表現がおこがましいような迫力を宿しています。

   期待していた妖怪画が思ったほど点数がなくすこし肩透かし気味だったのが残念ですが、美術館デビューとしてはなかなか満足の面白さでした。

   興味がある方は書籍や今後の企画展をチェックしてみたり、埼玉の蕨に河鍋暁斎記念美術館があるので訪れてみてはいかがでしょうか。

   教えてくれた友人に感謝。