話せば分かる、というのは言葉足らず
■ 話せば分かる…本当に?
巷ではよく、「話せば分かる」という言葉を聞きます。
これはある程度まではその通りです。きちんと誠意を持って話し、お互いの対立点を丁寧に紐解いて妥協点を探れば合意に至ることも可能です。議論、というととかく相手を理屈をもって打ち負かすと捉えられがちですが、実は議論とは「この人とどこで別れたのか」という点を明らかにすることなので、話をすることでお互いの理解が進むよう促す営みと言えます。
しかしながら世の中往々にして「話しても分かってもらえない」場面に遭遇します。それは主義主張が如何ともし難く対立するものであったり、立場が違うために全く折り合わないなどに起因することもあります。しかしここで扱いたいのは「そもそも相手が話を分かりたくないと思っている」という場合があるということです。
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あなたは見えない杭に繋がれていませんか?
またもやらかしました。ブログ放置。
このままでは2016年は1月に3記事、7月にも3記事、以上!で終わってしまいます。それではブログを開設している意味合いも極薄です。遅れを取り戻す、などとても言えない体たらくですが、書かないことには始まらず。書かない恥よりも書く恥を?という心持ちで更新します。
毎度の手慣らしで抽象的な内容をお届けしますが、人は知らないうちに自分の可能性を限定しているかも?という話。
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「金持ち父さん」は実在しない、に透ける残念さ
社会の窓がどんどん小さくなっていると思う
http://www.flickr.com/photos/57433821@N00/17128969040
また途絶えないうちにブログ更新。今回は抽象的なことを書きます。
◆「社会の窓」
ある時からふと、人々が世界を切り取る、その窓がどんどん小さくなってきているのでは?ということを考えるようになりました。「世界を切り取る窓」、ここでは分かりやすく一言で「社会の窓」と言い換えることにします。それは私達が外の世界の情報を得る時に、何を通して見ているかということに思いを馳せてみると気が付くことです。テクノロジーが高度に発達した現代、先進国においては殆どの人の手にスマートフォンが握られ、そこから驚く程大量の情報を得ることができます。いわば我々は「スマートフォンという窓」を通して世界を覗いていると言えるのではないでしょうか。そしてその窓の大きさは手のひらに収まる程小さいものです。
ブログの書き方を忘れてしまったのでリハビリします。
さて実に長い間更新が途絶えてしまいました。今年頭に3記事書いてから半年の放置。(たった3記事…!)
◆継続は力なりっていう言葉そのまま
継続とは思っているより大変難しいもので、続けられている間はさほど意識することはありませんが、一度途絶えてしまうと再開するためのエネルギーなりモチベーションはぐっと多大なものが必要になります。巡行運転するために習慣化なり生活の中に組み込む仕組み作りをしてしまえばいいのですが、義務であったり生活に必須の項目ではないために本当に小さなきっかけで停止し、ややもするとその状態が長く続きます。これは楽な方に流れたがる人の心理とか自分の弱さもそれに拍車をかけますね。「継続は力なり」という言葉は実に普遍的な法則を表しています。
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