半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

老人の闘いと、ライオンの夢:「老人と海」を読んだ

打ちのめされた老人が港に持って帰ったものはなにか?

 

先日、ヘミングウェイの「老人と海」を読みました。

名作と言われているのでだいぶ前に買ったものの、本棚の奥に眠ったままだったのを思い出し、引っ張り出してきました。

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 Amazon.co.jp: 老人と海 (新潮文庫): ヘミングウェイ, 福田 恆存: 本

 

 あらすじは以下の通りです。

キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。”

(裏表紙のあらすじより)

話としてはそれだけです。読者の眼前に繰り広げられるのは、広大な海、孤独な老人と巨大なカジキとの格闘。

本文における描写は老人がカジキを釣り上げるまでの経緯と彼のひとりごとを中心に淡々としており、特にひねりもありません。

小さい頃にこの本を読んでいたら、よくわからなかった、で終わったと思います。

しかし今この物語を味わってみると、感じることは多くあります。

 

印象に残った記述を拾ってみます。(太字はブログ筆者)

 

“「なにを食べるの?」少年はたずねた。

「魚のまぜ御飯がある。お前も食べていくかい?」

「ううん、ぼくは家で食べる。火をおこしてあげようか?」

「いいよ、もうすこししたら自分でやるから。それに冷飯のままでもいいんだよ」

「じゃ、投網を持っていっていいかい?」

「そうしておくれ」

投網などなかった。それを売ってしまったときのことを、少年は覚えている。だが、老人と少年とは、この作りごとを毎日くりかえし演じているのだ。まぜ御飯などありはしない。そのことも少年は知っていた。”

老人と彼を慕う少年のやり取りの場面。老人は老いのためか自暴自棄になっているのか、ろくな生活をしていません。

そんな老人を周囲は遠ざけるように扱いますが、彼を尊敬する少年は違います。老人と少年の心の交流がうかがえる一節。

 

“しかし、老人はいつも海を女性と考えていた。それは大きな恵みを、ときには与え、ときにはお預けにするなにものかだ。たと荒々しくふるまい、禍いをもたらすことがあったにしても、それは海みずからどうにもしようのないことじゃないか。月が海を支配しているんだ、それが人間の女たちを支配するように。老人はそう考えている。”

老人は長年漁師を営み、海に寄り添い生きてきた。そうした末に辿り着いた海への思い。達観と敬意が混ざったような捉え方だと思いました。

 

“「びんながだ」と老人は大きな声でいった、「こいつは立派な餌になる、十ポンドはかかるだろう」

老人は自分がいったいつごろから、こんなに大声でひとりごとをいうようになったか思い出せない。(中略)だが、大声でひとりごとをいうようになったのは、あの少年がかれから去り、ひとりになってしまってからだろう。(中略)「あの子がいたらなあ」と老人は大声でいった”

話の中で老人はよくひとりごとを言います。それは自らとの対話であり、少年と共に海に出た過去を懐かしみ求める心の独白です。

淡々とした描写の中で、このひとりごとによって老人の孤独が一層際立ちます。

 

“「おい」老人は魚に向かって大声で、しかしやさしく語りかける、「おれは死ぬまで、お前につきあってやるぞ」

(中略)

「おい」とかれは魚に向かって呼びかけた、「おれはお前が大好きだ、どうしてなかなか見あげたもんだ。だが、おれはかならずお前を殺してやるぞ、きょうという日が終わるまでにはな」

(中略)

あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間が腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか?あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。”

長い格闘の中で老人は魚に対する感情が変化していきます。好意や敬意を抱き、魚に語りかけます。しかし、かならず殺してやる、という漁師としての誇りも忘れていません。老人と魚の対峙に息をのみ、話に引き込まれていきます。

 

魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。”

あらゆるものが自分以外のものを殺して生きている。生と死はつながっており、生き物はそこから逃れることはできない。魚をとって食うことで生きている老人の罪の意識に打たれます。

 

“昼すぎ、一団の旅行者がテラス軒に立ち寄った。(中略)「あれ、なんでしょう?」女はかたわらの給仕にたずねながら、大魚の長い背骨を指さした。(中略)「さめが・・・」かれは一所懸命顛末を説明しようとする。

「あら、鮫って、あんな見事な、形のいい尻尾を持っているとはおもわなかった」

「うん、そうだね」連れの男がいった。”

老人が死闘の末にやっとの思いで釣り上げたカジキも、傍から見ている者からすればただのサメになってしまう。老人が闘った大魚は一体なんだったんだろう。作者が用意したこの結果に、私は打ちのめされてしまいました。

 

“もはや、老人の夢には、暴風雨も女も大事件も出てこない。大きな魚も、戦いも、力くらべも、そして死んだ妻のことも出てこない。夢はたださまざまな土地のことであり、砂浜のライオンのことであった。

(中略)

少年がかたわらに座って、その寝姿をじっと見まもっている。老人はライオンの夢を見ていた。”

 老人はなぜ、ライオンの夢を見るのか?ライオンは何の象徴なのか?

本文中には明らかにされていないので、読者の想像を誘います。

読後すぐには分からなかったのですが、私なりに考えたのはライオンはアフリカにおける捕食者の頂点であり、海の捕食者の頂点である人間と重なること。またその誇り高いイメージから、漁師の誇りの象徴として描かれているのではと思いました。

 

 

シンプルな中にも奥深い味わいがあり、読者の想像を広げていく…。

これが長年読み継がれてきた名作の力なのか、と思い知らされました。