半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

この世のすべての存在は「コップ一杯の水」と同じである

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◆「否定の否定」について考えてみる

 先日「否定の否定」について書きましたが(過去記事:ピーマンが嫌いだけどピーマン食べてみる、があなたにもたらすもの - 半可通素人)、この概念について少し分かりにくいところもあるのでもう少し補足しようと思います。
 
 「否定の否定」とは、昔英語で習った「二重否定」とは異なります
これは、弁証法哲学で用いられる概念です。
弁証法とは、哲学の用語で、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされます(Wikipedia)。「正反合」(テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ)といえば、聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
弁証法、正反合も興味深いですが、ここでは否定の否定について話を進めます。
 

 まずは概念自体がなんだか抽象的でイメージがしにくいので、具体例を挙げてみます。

事物の発展段階において、事物の発展を阻害する状態を廃棄することをいう。全面的に否定する(この場合は単に「否定」という一語で表現する)ことと明確に区別する。

 

例えば胎児が母親の胎内で成長するが一定期間を過ぎるとそれ以上母親の胎内にいられなくなる。それは胎児自身の成長を阻害するばかりか、母親の生命すら危険に陥れる。したがって胎児は自ら胎児である状態を否定し、新たな生命体として誕生することになる。このことにより、胎児は全く異なる環境に身をおくことになるが、飛躍的成長を可能にすることとなる。(はてなキーワード)

 

 もう一つ例を挙げると、
これは物事の発展がA→B、B→A’という形式になっているという法則です。
Aが否定されBになり、Bが否定されA’になることからこの名前が付いてます。
 
たとえば、花はやがて枯れて種が残り、その種が成長してまた花を咲かせます。
(花→種、種→花)=(A→B、B→A’)
花がまた花になるのなら、一旦、種になるのはどういう意味があるのでしょうか。
種になる前の花と、種からでた花は同じように見えて、違っているところがあります。
数が増えています。

物事の発展過程が、このように、進むべき方向に対して、一時期、逆に進む形をとるのです。(http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/bensyo4.htm)
これで少しイメージしやすくなったでしょうか。
 

◆すべては相対的存在である

 否定の否定から話を広げます。
 人はよく「絶対」という言葉を口にしますが、絶対というものはこの世に存在しない、というのが私の考えです。
あるとすれば「世の中に絶対などない」というのが唯一の絶対的事実と思います。
すべては相対的であり、他者との関係性において成り立っています
 
 例としてコップ一杯の水を考えてみます。
コップに入っている水は、コップによってその外部と隔てられています。そしてその形はコップの形に依存していくらでも変わりうるものです。
コップが無いと、水は形を失いどばーっとテーブルの上に無秩序に広がるだけです(その後表面張力により水滴となり球面の形態を持ちます)。
また、水は周囲環境の温度によって固体、液体、気体と状態を遷移させます。
さらにコップの周囲についた水滴のように、液体である水は、周囲に気体として存在している水を冷やすことでその状態を変化させます。
このように水は、外部に影響されると同時に、外部に影響を与えて存在しています。
 

◆「自分探し」は幻想

 「自分」という存在もこれと同じ構造を有しています。
「自分」とは、「自分が思う自分」「他者が思う自分」の二重構造をしており、一方が他方に影響を与えあって存在しています。
したがって俗にいう自分探し、本当の自分というのは「自分が思う自分」のみに焦点を当てており、幻想です
では本当の自分はどこにあるのか?それを考える第一歩は自分は相対的な存在であり、揺らいでいると自覚することです。
完璧な人などいない、完成した自分などいないことを認めると、必要以上に自分を貶めることなく気持ちも楽になります。
かと言ってどうせ到達点はないんだと腐ってしまっては、あっという間に「正当化の罠」(過去記事:あなたもはまっているかもしれない「正当化の罠」 - 半可通素人)にはまって堕ちていってしまうので注意が必要です。
 
 「否定の否定による発展」という過程と、「すべては相対的である」ということを意識し、自己を高め続ける努力を継続することは大変重要です。
 

 ◆たまには哲学もいいよね

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 今日は否定の否定という概念から、存在について哲学を使って考えてみました。
普段こんなことを考える機会はあまりないですが、頭の体操と思って考えてみるのも考え方の幅が広がるし悪くはないものです。
私もまだまだ勉強中であり、ここに述べたことは半可通の戯れ言レベルのものかもしれません。それもまた揺らぎながら作られていくものの一つと考えて精進していきます。
なお弁証法については、こちらの本が詳しいです。
興味のある方はご参照ください。
 
 
【余談】
 ブログを始めて12日目ですが、楽しく更新できています。
考えていることをあまり包み隠さず書いているので、少し気恥ずかしいこともありますが…。
このブログを読んでくださっている方は、そろそろ私が頭の中で小難しいことをこねくり回して遊んでいる変態変わり者だということが分かってきたのではないでしょうか(笑)