半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

あなたの立ち位置は何処ですか?:哲学、心理学、禅の違いについて

 
 先日、友人の奥さんと私が興味のある哲学、心理学についてたまたま話をする機会がありました。
彼女は禅にも詳しく、私がそれらに興味があると言うと以下のことを教えてくれました。
 
「哲学、心理学、禅にはそれぞれ捉え方の違いがある。
哲学は考える命題を探すもの。心理学はなぜそのような心のはたらきになるかを探求するもの。禅は物事に対する自分の立ち位置を探求するもの。」
 

f:id:hnktusrot:20141022225003j:plain ギョギョギョ!!

 
 明解な説明と造詣の深さにすっかり恐れ入りました。イイね!
さらに仏教についても興味があったので、宗派の違いについても軽く教えてもらいました。
…お主やりおるなッ!!
 
 そして禅の考え方の例として、「南泉斬猫」という有名な禅問答を聞かせてもらいました。
 
“ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。

南泉は猫を提示して言った。

「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう」

  誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。

 

  夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。

「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに...」”

 

 http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.7.htm より引用

 
 これを聞いて私が考えたこと。
猫を斬った南泉和尚は1つは何も答えられない弟子たちに絶望し、その行為に及んだのではないでしょうか。そして趙州が頭の上に履(くつ)を載せて出て行ったのは、そのような奇抜な行為と同様に、南泉和尚が猫を斬ったのも何も意味を持たず、目に見える現実は自分がそう認識した結果に過ぎないということを示すのか、と考えました。
 
 この禅問答、猫が思考の対象となっているのが量子力学における「シュレディンガーの猫」と共通になっている点で興味深いです。中国とヨーロッパという異なる文化圏において、思考の対象が共通となる不思議。
なぜ猫なのでしょうか?犬では駄目なのでしょうか?犬の方が社会性があるし、人間の生活により近い動物ということで倫理的問題が大きいのかもしれません。
さらに南泉和尚が斬るのが人間ならまた話は違ってくるのでしょうか。この場合、自分を斬るという選択肢すらあり得る訳です。
それを考えてみるのもまた楽しい。
 
 この様に考える私は、命題を複数思いつく時点で哲学的思考から抜け出せずに禅の境地には至っていないようです。
 
 …しかしこんな話をしていたのがアメリカンスタイルのオシャレストランだったので、場所と会話の内容のギャップがすごかったなあ(笑)
 
 
 
 


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向井秀徳氏は天才だと思います。