半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

書くこと=感覚を濾過していくこと(その1)

   ありがたいことにブログを読んでくださった方から文章を褒められることが幾つかあったので、調子に乗って「書くこと」についての考えを記しておきます。
といっても目新しいことは無く、ほとんど基本的なことだと思います。ですが案外できていないことも多いので、参考にしていただけると幸いです。
 
 

◆書くことと思考の関係

   書くという行為は、自身の頭の中にある思考を文字にして目に見える形にするということです。ものを書く時、私達は頭の中では分かっているつもりなのに、いざ書こうとすると思い通りに上手く書けないという状況を往々にして経験します。何故そのようなことが起こるのでしょうか?
 
   それは、この「思考→書く」という過程の間に普段は意識していないステップが介在しており、それが障壁となっているからです。
 

   自分がものごとを考える時は、その内容に五感や感情を伴います。いわば情報に身体感覚を伴った状態で知覚されます。しかし、文章を書く時は文字しか手段が無く、文字は身体感覚を伴わない無機質な情報媒体です。

   つまり書くという時、そこには思考に含まれる五感や感情といった文字にするには曖昧な身体感覚も無機質な文字情報に変換する必要があります。単純なものごとなら無意識にこの変換を行えるため容易ですが、複雑なことを書こうとするとこの変換作業に語彙や表現力が必要になるため、一筋縄ではいかないということになります。
 
   そして文章を書く時、自分の学びや記録のために書くこともありますが、多くは他者に伝えるために書く、ということが目的になります。この時、「自分と他者は別個の存在である」という避けられない前提が横たわります。別個の存在である以上、自己の身体感覚をそのまま相手にも感じてもらうことは不可能です。ここでもまた、感覚を文字に変換することが重要になります。
 「伝わる」ということは、情報を相手が受け取って自分の感覚に落とし込み理解すること、といえます。自分が意図したように相手に伝わらないということもよく起こりますが、それは「自分の感覚→文字→相手の感覚」の変換にズレが生じていることによります。
 

◆書くことは感覚を濾過していくこと

   このように、書くという行為を紐解いていくと「書くことは思考から感覚という曖昧なものを濾過し、文字という客観的な情報に落とし込んでいくこと」という構造が浮かび上がってきます。
 
   こうして考えていくと、自分がものごとを理解することと、それを人に教えることがまた異なるのも同じ原理であることが分かります。
 
   この先は次回に続きます。
 
 
…テレパシーが使えたら楽なんだけどな。
 
 
 
 
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