半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

NG→がんばったと表現する無難な風潮?

   前回からの流れで言葉シリーズ。

 
   先日ふとテレビを眺めていたら、「がんばった大賞」という番組を流していました。画面隅の字幕には「ドラマNG一挙放出」みたいな文字が出ています。
   あれ?それってNG大賞じゃなかったっけ?と思ったのですが、どうやらかつての「NG大賞」が「がんばった大賞」としてリニューアルされていたようです。興味が無いので番組は観ていませんし、そもそもテレビをほとんど観ないのですが、この「NG→がんばった」という変化について、近頃の「表現の無難化」の流れを感じました。
 

   ここで言う表現の無難化とは、表現に差し障りがあるという理由で言葉が変更されることです。例えば、スチュワーデスが客室乗務員、ビジネスマンがビジネスパーソン、看護婦が看護師と変わったり(ジェンダーの問題)、痴呆症が認知症精神分裂病統合失調症と変わったり(差別的表現の問題)しました。これらには確かに倫理上の問題があるので、社会と価値観の変遷に伴って変更されていくのは自然なことと言えます。

 
   しかし、それも行き過ぎるともはや言葉狩りの様相を呈します。近年、「子供」を「子ども」とする表記が多く見られますが、これは「供は子供が親のお供であることを連想させるため差別的である」という説があるからだそうです。
 
 
   上記サイトには、差別表現とされるものを糾弾あるいは自粛することと、それを言葉狩りと捉えるかについての問題提起がされており、改めて言葉について考える契機になります。
 
 
   「NGを出すこと」を「がんばった」と捉えて無難に表現し、クレームを避けようとしているテレビ局の姿勢が見えた気がして、昨今の過剰な(と私には感じられる)自粛気運と関連付けて書いてみました。
 
   がんばった大賞ではNGの他に番組の名場面を流すようなので、単にNGのみでは視聴率が取れなくなって改変が行われ、内容の変化に伴って番組名が変更された可能性もあります。だとするとこの記事自体が言葉狩りになってしまいますね。
 

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photo by enggul

 

   言葉は普段何気無く使っているものの、どこまでも難しいものです。