半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

「ネット人物像」の限界

   コミュニケーションの難しさは折に触れて感じることも多く、よく議論の対象にもなりますが、今日はその中でもインターネットにおける不特定多数を相手にしたコミュニケーションについて。
 
 
   日本を含む先進国と呼ばれる国々ではインターネットがコミュニケーションの手段としてすっかり普及しています。一昔前の情報発信の手段が限られていた頃と異なり、今ではブログやホームページ、メールマガジンなどによって誰でも「発信者」としてコミュニケーションの起点になることが容易になりました。自分が世界に向けて思ったことを発信できる。これは大変素晴らしいことです。しかし、コミュニケーションの「深さ」という観点ではどの程度進んでいるでしょうか?
 

   コミュニケーションは相手と知覚や感覚、思考などの情報のやり取りをして相互の理解を深めたり、交流したりすることです。そしてコミュニケーションを通じて相手の人物像を理解していくこととなり、そのことがさらにコミュニケーションを円滑にしていきます。この「相手の人物像を理解していく」ことに関して、実はネットには情報の偏りがあることにお気付きでしょうか?

 
   今のところネットは文字に大きく依存しています。ブログ、ホームページ、メールマガジンのどれもが文字による表現を主としています。そこには人間の顔や表情、声の高低や話し方といった要素が欠落しているのでどうしても「書かれたことによる印象」に左右されます。よく某掲示板や某ニュースのコメント欄などで誰かが言葉の応酬になり罵り合っているのを見かけますが、これも文字だけでお互いの意図を汲みきれなかったことが原因になっていることがあります。
   情報が限られているために相手の人格を現実とは異なる風に認識してしまう可能性がネットには常に存在しています。
 
   そして、ネットでは匿名でのコミュニケーションが現実よりはるかに容易です。個人情報保護の観点もありますが、匿名という「特定の情報を秘匿した状態」でもネット上の一人格として振る舞うことができ、第三者に必要以上の情報を与えずしてコミュニケーションの主体になりえます。
 
   さらに上記に関連して、個人が敢えてネット上での人格を「フィクション的に」作り上げている場合もあります。私もそうですが、特定のハンドルネームでブログやTwitterを発信しています。これについては「現実とは違う自分」を投影したりすることもでき、匿名よりも意図的な側面がより強く出やすいように感じます。
 
   いずれにしても「文字による情報伝達に依存している」ことがネットにおけるコミュニケーションを大きく規定しており、深さという点では現実とは乖離しています。しかし技術は現実を変革するように進歩します。最近流行りのYouTuberのような動画による発信や、Skypeなどのライブ通話など、人間の顔や表情、声の高低や話し方なども伝える手段が現実のものとなっています。こうした技術によって既存の欠点が補われ、使用者にとっての選択肢が増えていくことによって今後もネットでのコミュニケーションはますます活発になっていくのでしょう。
 
   現実の私を知っている方はこのブログを読んで、私らしい文章を書くという印象を持たれているようで、そこには「現実の私の人物像」を知っているという前提があるためにそういう印象を持つという面があるように思います。現実の私を知らず、このブログを読んでくださっている方は例えば私が男か女かもご存知ない状態かもしれません。文章が主体のこのブログを読んでどのような印象を持たれているか、どなたか優しい方がいれば興味があるので教えてください(笑)