半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

ネット言論の偏りに透ける現実

   過去記事(「ネット人物像」の限界 - 半可通素人)でネットは文字情報に依存しているので人物像の理解が難しいという話を書きましたが、もう少し話を拡げます。
 
 

◆「ウェブ進化論」の実際

   誰もが発信者となれるネットでは、現実における物理的距離や表現媒体の制約を超越した自由なコミュニケーションが可能になりました。そのことが社会に大きな変革をもたらし、コミュニケーションの障壁が取り払われることによって集合知の形成が促され、人類の知的進化において革新が起こるという作用が期待されます。
 

 

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 

 

   うろ覚えですが、ウェブ進化論には「ウェブは知の高速道路となって人類の進歩を促すだろう」という趣旨の記述があり、ウェブすなわちネットに対して大きな希望を見出す論調になっています。

 

   しかしネットが普及した現代において、実際はどうでしょうか。(日本の)ネットユーザーは某掲示板や某ニュースのコメント欄に群がり日々罵り合いを繰り広げ、Twitterはバカッターと呼ばれるようにモラルの低い投稿が乱れ飛び、著名人のブログは度々炎上しています。ウェブ進化論で例えられた知の高速道路は確かに拡大していますが、それらが繋ぐ知がある所で交わりそれが大きくなり、インターチェンジ付近に街が発展するように集合知が形成されていく風景というのはかつて期待された程の規模にはなっていないのではないでしょうか。

   もちろんWikipediaのようなウェブ百科事典、MOOCのようなオンライン学習、TEDのようなプレゼンなどネットによって知の形成が進んでいる事例も多くあるので、上記は負の側面に注目しすぎな感もあります。
 

◆ネットで幅を利かせる主張

   こうした現状にはネットもあくまで現実を反映するので現実の負の感情も集めるようになっているということや、単に様々な情報が手軽に入手できるようになったために局所的な現実がネットによって顕在化したからという指摘があり、それはもっともなことだと思います。
   そして更に見逃せない要素として、「ネットでは0か1かの主張が幅を利かせ、悪い人の方が得をする」という点があります。冒頭の過去記事でも書いた通りネットは文字情報に依存するため、曖昧な文脈や細かいニュアンス、感情の機微などが伝わりにくいです。そのために0か1かの極端な方向に意見が集約され、現実に即した中庸な主張というのは淘汰される圧がかかります。
 
   例えばベビーカーを押して電車に乗る親に対する批判に対して、
1)「周囲の迷惑になるのでベビーカーは電車に乗せるな」
という主張と
2)「子供は社会の宝なので周囲が譲って見守るべき」
という相反する立場が対立することになり、大体この2つに意見が集約され集団が形成されます。これに対して、例えば
3)「ベビーカーを持ち込む親は乗る時間帯を考え、鉄道各社も例えばベビーカー用スペースを設けるなどお互いがより気持ち良く利用できる取り組みがまだできるのではないか」
といった、1)と2)の間に位置する主張も展開されますが、これには議論の余地が多く、また人によって解釈が異なるなどするために特に1)の人達からの攻撃を受けます。3)の人も始めのうちは説明を試みますが、いかんせん文字情報による制約のため説明に要する労力が大きくなります。対して1)の主張は明解で同じ考えの人の同意を得やすく、自然と発言力が増して幅を利かせることになります。こうして3)の人達は「説明するのも大変だし何か攻撃されるから始めから黙っておこう」となって発言をやめ、ますます1)と2)に意見が集約されていきます。
   ちなみにこれは過去記事(身近に転がっている二項対立の罠に気をつけよう - 半可通素人)で書いた二項対立に陥る分かりやすい例ですが、二項対立はそれこそ「思考停止への高速道路」となるので、賢明であろうとするならば注意が必要です。
 

http://www.flickr.com/photos/57763385@N03/15158408564

photo by clement127

 

◆「悪い人」が得をする 

   そして上記のようにネットでは否定的なことを発言したり他人を攻撃する「悪い人」が得をします。身元を明らかにしている場合や著名人が発言する場合は異なりますが、一般にはネット上では匿名での発言が容易です。匿名には責任が伴わないためにたとえ否定的な意見を発して炎上しても、現実の発言者には影響がありません。精神的なダメージは生じこそすれ、匿名を貫けば周囲の評価や発言に伴う責任を気にすることなく他人に無遠慮な言葉を投げつけることができてしまいます。知の高速道路は整備されましたが、そこを走る車を運転するのはあくまでも人間ですから、ユーザーのモラルが問われる訳です。
 
   こうしてネットで形成される言論は極端な方向に偏りがちであるという性質を持つことになり、「ネット人物像の限界」と共に「ネット人物像の偏り」が現れることとなります。Twitterで「バカ!カス!◯ね!」とか叫んでいる人も実際に会ってみると内気で口数の少ない人だった、なんてことが起こるのです。
 

◆ネットはまだ過渡期

   こうしたことを見るにつけ、特にSNSなど手軽に書き込めるサイトの登場で日々燃え上がる光景が繰り広げられているので、ネットにはある程度の「面倒さ」が必要ではないかとも思ったりします。その点ブログは書く労力がかかるので比較すれば民度は高いのかもしれません。とはいえコメントで荒れることもありますし、「〜で消耗してるの?」や「田舎で底辺〜」のような煽り系のブログはまた別ですが。
 
   ネットが一般に普及するようになってまだ20年くらい、現在はまだ過渡期であり評価を下すには時期尚早であるかもしれません。しかし今を生きる我々にとってネットのあり方を考えることも必要ではないかと思います。