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半可通素人

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすブログ。

哲学は自由をめぐる人間の物語(その2)

 

   哲学の基本となる考えについての後に、著名な哲学者の紹介をしながら哲学の発展の歴史について紹介がされました。哲学の歴史は真理を追求する人々の思考の歴史でもあるのですが、カントの「絶対的真理など(分から)ない」からデカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」、フッサールの「一切は私の確信である」、ニーチェの信念対立を欲望まで遡って克服する思想、再びフッサールの「共通了解」への到達、という流れで概要を解説していただきました。これだけでも一言では分からない概念が沢山出てくるのでかいつまんで説明します。

 

◆カント

   カントの「絶対的真理など(分から)ない」というのは、まず私たちが見ている物と犬が見る/虫が見る/魚が見る物は同じだろうか?ということです。犬は白黒の世界と言われていますし、虫は複眼で一度に多数の像を見ていることから、これらは同じではないことが分かります。即ち私達は物を認識していると思い込んでいますが、それは人間の目で見た像を脳が認識しているに過ぎず、従って絶対的な真理などない、あるいは分からないというのがカントの主張です(私の過去記事でも最近似たようなことを書きました:人は全てのものが見えている訳ではないし不幸せも人生には必要 - 半可通素人ご参照)。
 

デカルト

   次に数学者としても有名なデカルトは、絶対的な真理はないという自覚から、真理はないが、「私はこう思う」という今ここにあるものは疑えないと考えました。これが「我思う、ゆえに我あり」という言葉に繋がります。彼は真理をめぐる対立に分かり合う余地はないが、「私はこう思う、あなたはどう思うか?」と問うことで分かり合える余地が生まれるとしています。
 

フッサール

   フッサールはそこから更に発展させて、「我思う」という時の「我」は実体として存在しているかどうか疑うことができるため、疑えないものは私の確信であり、真理とは一切は私の確信であると考えました。これは少し分かりづらいですが、映画のマトリックスを思い出していただくと分かりやすいかと思います。マトリックスの世界では人々はコンピューターに仮想空間を見させられていますが、それに気がついていません。つまり現実世界に存在すると思っている我々の実体は実は虚像かもしれないと疑うことが可能です。これに対して「私が確信する」という事実は実体が何であれ疑いようがありません。フッサールがこのように考えたのは、絶対真理があると考えると真理をめぐる殺し合いが起こるのでそれを避けたいという狙いがあったようです。
 
 
   こうして歴史の流れの中で思考の変遷を追っていくのも興味深いですね。続いてニーチェの話に続きますが、ここも長くなりそうなのでまた続きに改めて書きます。中途半端で申し訳ありません。
 
 
 
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