哲学は自由をめぐる人間の物語(その3)
前回の記事(哲学は自由をめぐる人間の物語(その2) - 半可通素人)で、哲学の発展の歴史をカントからデカルト、フッサール、ニーチェ、再びフッサールという流れで紹介し、1回目のフッサールの「一切は私の確信である」というところまで概説を書きました。以下続けます。
◆ニーチェ
カントやデカルトもそうですが、皆さん一度は名前を聞いたことがあるであろう著名な人物です。ニーチェは私達は世界を欲望や関心に応じて認識していると考え、人々の信念に関する対立もそうした己の欲望まで遡れば互いの理解に達しやすいとしました。欲望は誰でも共通して持っているため、そうした根源部分に相関性を見出し、信念対立を克服しようということです。またルサンチマン(恨み、妬み、そねみ)という言葉も有名ですが、ニーチェは人は世界をルサンチマンの観点で見ているとしました。彼はルサンチマンを肯定していると時に誤解されるそうですが、そうではなくルサンチマンは人生を台無しにするのでルサンチマンを喰い殺せとまで主張しました。妥協を許さず徹底的に思考を追求するため、人によって好き嫌いが別れる哲学者と言われています。
ニーチェの著作としては「道徳の系譜」が有名ですが、これはキリスト教を批判した本です。キリスト教は弱い者が苦しむのは現世の罪を背負っているからだとし、死語の世界において幸福になるために現世での自分の喜びを悪としました。キリスト教の言う「隣人愛」では、己を犠牲にしてまで他人を助けることが善いことで自分の喜びを求めることは悪いとなります。このようにキリスト教はそれまでの道徳観を転倒した訳ですが、ニーチェはそれを「キリスト教はルサンチマンの宗教だ」と言って批判します。道徳の転倒は、弱者が強者に対抗するための現世の喜びの否定だと指摘し、それはルサンチマンからくる歪んだ道徳観だと喝破したのです。現世の喜びを享受している強者に対して、弱者は苦しんでいます。その強者に対するルサンチマンから、現世の喜びは悪であり今は苦しくとも隣人愛によってあの世で幸福になることこそ善いことという道徳を説いたのです。これは現世の否定であり価値観の転倒です。詳しくは原著をご参照ください。
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ちょうど最近はてなに輝くスーパーブロガーことしっきー(id:skky17)氏もニーチェに関する記事を書いており、こちらの方が詳細で相変わらず文章も冴えていらっしゃるので読むとより勉強になります。(お誕生日おめでとうございます。)
◆再びフッサール
そして再びフッサールが出てきます。彼は思考を更に進めた結果、人に真理は分からないが「共通了解」には到達できるという考えに行き着きました。共通了解とは読んで字の如くお互いに了解できるものごとということです。曰く、真理をめぐる対立には終わりがないので、お互いの考えを提示し相手の考えは何であるかを聞き、互いの確信を問い合うことで共通了解を理解しようというのが哲学ということです。
そしてこれがおおまかに現在の哲学の考え方となるそうです。難しい概念をこねくり回すのではなく、現実の問題を解決するために考え方を提示し共通了解に持って行こうという主旨ですかね。
哲学の発展の歴史は大体以上のようなものでした。そして哲学者は聖人君子のように思われがちですが(これは倫理の授業が悪いと仰っていました)、実際は変人が多かったとのことで、哲学をやる人は大体頭がおかしいということも紹介されました。
例えばニーチェは
- 25歳で大学教授に就任
- 自伝で「この人を見よ」という本を書いた(この人とはもちろんニーチェ自身)
- こちらも有名な「ツァラトゥストラ」の中でニーチェは新しく聖書を書こうとした→これが「神は死んだ」という言葉の所以
- 恋愛が成就せずそのことで晩年はおかしくなってしまった