半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

哲学は自由をめぐる人間の物語(その5)

   前回の記事(哲学は自由をめぐる人間の物語(その4) - 半可通素人)までで哲学に関するセミナーの内容を振り返りました。ここからは終了後にこのセミナーを教えてくれた友人と話したことについて書きます。
 

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photo by Simon Blackley

 

◆友人の疑問その1

   友人はセミナーを聞いた感想として、哲学をやるにはやはり哲学史を学ばないといけないのか?自分のオリジナルではいけないのか?という疑問を持っていました。何だかそれ自体が哲学的な疑問でもあります。

 これまで書いてきた通り、哲学というとやたら「誰それがこんなことを言った」ということが出てきますが、それで哲学を敬遠する人もいると思います。確かに誰かの考えを習うだけではお仕着せのお勉強感が強くなり、嫌になるのも自然なことでしょう。私は最近哲学に興味を持ち始めたばかりのにわかなので哲学史は勉強していません。こうした過去の人達の考えを必ずしも知らなくても良いと思いますし、実際に哲学は1人でもできます。

 

   しかし哲学とは、今回のセミナーの言葉を借りれば「答えを得るための考え」を追求するものです。そして自分の考えは自分の知識と経験の範囲でしか組み立てることができません。そうした時に哲学史を学ぶことで過去の哲学者の考えを知り、あらたな知識を得ることができます。それは自分の視野を広げ考えを深化させることに繋がります。また人は初めから独自の考えを持っているわけではなく、何も知らない子供の状態から親を始めとした周囲の大人や、成長につれて関係を持つ他者から様々なことを教わることで思考を形成していきます。その過程を考えれば、そもそもオリジナルの思考ではない訳ですから哲学史を学ぶこともなんら特別なことではないでしょう。

 

   更に哲学が持つ逃れられない性質として、「哲学はいつも後からやって来る」というのがあります。詳しくは森の哲学者は夕暮れ時に飛び立つ、ということ - 半可通素人を参照していただきたいのですが、哲学は現実がその形成過程を完了した後に初めて現れるので、現実を見定めてきた先人の知恵を追うこと無しに哲学を深めるのはいささか難しいと感じます。そういった観点からも哲学史を知ることは有用でしょう。
 
 

◆友人の疑問その2

   続いての疑問は、哲学は本質というものを題材にするけど、「本質」とは何か?というもの。これは難しいです。
 
本質(ほんしつ、希: ουσια (ousia), 羅: substantia / essentia)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。(本質 - Wikipedia
 
これだと抽象的過ぎて今一つ馴染みません。言うなればそのものの根本的な性質、要素といった説明が当てはまりそうです。あるいは感覚的には誰もが納得できるものごとの根本の理(ことわり)といったところでしょうか。しかし哲学の歴史の中で、絶対的な真理などないという考えが出てきました。そうすると誰もが納得できる理などというのは世の中に存在しないことになります。根本的な性質、要素もそれが本当に根本的なのか疑うことが可能です。
 
   従って本質とは、私の頭の中では「できるだけ大多数の人が根本的だと見なせる性質や要素」という最大公約数的なぼやけたものになってしまいました。絶対的な本質などないというのが本質、という禅問答のような状態ですが、人間が考えることなので限界があるのは自然なことでしょう。しかしそれで思考を停止してはいけません。限界を設けるとそれが逃げの口実になります。
 

◆私の疑問

   私は今回の話のうち、人は己の欲望や関心に応じて世界を見ているといった話や欲望の本質は自由であるといった話を聞いて、哲学は贅沢な行為だなと感じました。過去にこのブログでも書きました(選挙に行かないと欲求段階下がっちゃうよ、そんなのは嫌だ! - 半可通素人)が、人間の欲求には段階があり、低次の欲求が満たされないと高次の欲求は現れないという説があります。簡単に言うと衣食足りて礼節を知る、ということです。欲望と欲求の厳密な定義の違いからすれば私の考えは的を外しているかもしれませんが、哲学者が思考を重ねた「自由と幸福」という対象は「衣食住が満たされるという前提」があることを忘れてはいけないと思います。
   人は生まれる環境を自ら選択することはできません。世界には残念ながら貧富の差が厳然として存在し、低次の欲求が満たされない環境に生まれてくる人が多くいます。世の中の問題に対して答えを出すのが哲学なら、こうした生まれながらの環境の違いによる「自由の格差」対して現在の哲学はどのような答えを出すのか?という疑問が当然生まれてきます。それは運だ、ですまされるのでしょうか?
 
   この疑問に対する明確な答えは今の所分からないので、自分で考えようと思います。何かお考えがある方は後学のために教えていただけると幸いです。