半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

エンジンスタートボタンだと責任感が生じないワケ

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   過去記事使い勝手を優先すると責任感が劣後するという話 - 半可通素人で、車のエンジン始動がスタートボタンに変わったことによってかつての「鍵を回すことによるこれから運転する感の発露」が薄れ、それが「車を運転することに対する責任感の希薄化」に繋がっているのではないかと書きました。何を小さなことをと思われたかもしれませんが、これがあながち侮れない点を持っています。

 

◆エンジン始動と量質転化

   これまた過去記事で幾度か触れましたが、哲学の弁証法における法則の1つに「量質転化」というものがあります。量的な変化が質的な変化をもたらすということですが、薬も量を増やすとあるところから毒に変わるという質的な変化を生じる例が分かりやすいと思います。前述の「鍵を回してエンジンをかける」という小さな行為も、何度も回数を重ねて量を積むことにより「鍵を回す→これから運転するという意識(ともすれば事故等に繋がりかねない危険な行動をするという自覚と責任感)の創出」という自己の認識における質的な変化が生じます。
   (量質転化について興味がある方はまずは雑巾掛け、皿洗いから。:量質転化で自分を変えられる - 半可通素人をご参照ください。)
 
   「運転に付随する責任」を自覚していないとそもそも話が成り立たないので当たり前の責任感を持っていることが前提になりますが、鍵を回すという小さな行為に「これから運転するぞ、命に関わる責任を持つぞ」という意識を持って繰り返していると、それが認識のスイッチを切り替えるトリガーの役割を持つようになるということです。
 

◆スタートボタンだと責任感が生じない

   これがエンジンスタートボタンだといささか話が違ってきます。当然これから運転するという意識を持ってボタンを押すのですが、その押すだけという手軽さと家電やゲーム機のスタートと同じという「敷居の低さ」があるために、「運転する」という普段と違う意識への切り替えが阻害されます。家電やゲーム機のスタートもボタンを押して簡単に始めるという行為が量質転化していますから、そちらの影響の方が大きく認識に働いているということです。
 
   以上のような理由から、私はエンジンスタートボタンでは車の運転に対する責任感が希薄化すると書いた訳です。しかし何も鍵を回すだけが車を運転することではありませんので、ハンドルを握れば、ブレーキを踏んでシフトを入れれば意識が切り替わるという量質転化も起こせるはずです(既に起きているかも)。ですが何事も初めが肝心と言われるように、車に乗って最初に行うエンジンスタートをどのように行うかは重要な役割を持っているのではないでしょうか。
 

◆「認識」の大事性

   手軽さ、利便性を追求するあまりに、重要な人間の認識過程がないがしろになっていないか。それらを考慮した設計が行われているのだろうかと、なんだか老人の小言のような突っ込みですが、かつてあって現代で忘れられていることの1つを身近な題材を例に説いてみました。
 
   人間は認識が本能を統括する程に認識を発達させた生き物であり、それが人間の大きな特徴でもあります。認識は鍛えなければすぐにダルになるものです。「水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる。」認識を高く保つには高みを目指し自分を律することですが、それだけではつい怠け心が出てきてしまいます。自分を律してくれる他人や環境を周りに置いて、周囲の力も借りることでダレを防ぎやすくなります。「朱に交われば赤くなる」ですね。逆に安易な環境に甘んじているとあっという間に転落です(心当たりがあり過ぎる)。
 
 
   おまけ。ブログなどでも専らキーボードを使って書くので、手書きの際に漢字が全然書けなくなりました。これも量質転化の1つで、漢字を書く量が減った為に脳の質が漢字を書けない方向に変わってしまったということです。皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。こうしてみると弁証法も身近に感じられます。
 
 
   弁証法について詳しく知りたい方は以下の本をどうぞ。

 

 

 

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

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