半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

行き過ぎた効率化はシステムへの依存を生み「余裕」と「らしさ」を失わせる(その2)

   続きです。
 
   前回は、効率化を推し進めるほどにシステムへの依存が強まる、そして現代社会の代表的なシステムである資本主義による効率化の手段としてのお金に対する依存が強まりすぎてはいないか、ということを書きました。
 

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◆お金への依存は手段の目的化

   お金とは各人の分業によって生み出された価値(何らかの製品、サービス、時間の削減など/財とも習った気がしますね)を効率良く交換する手段として考え出されました(とされています)。かつての物々交換では所有しているものしか交換できず、また価値の尺度が標準化されていないために、一旦お金という価値が明確で交換が容易な手段を用いることにしたのです。

   つまりお金は「生きるため、生活の質を高めるため、および自己の欲望を満たすために必要なものを入手するための手段」に過ぎません。しかし私達はいつしか「お金を得ること」に汲々として自分の時間を持てないほどに働き、「お金があれば幸せ」という幻想に取り憑かれて終わりの無いハムスターの回し車の上を走り続けています。これぞまさに「手段が目的化」している逆転現象なのですが、多くの人々はそれに気が付こうともしません。

   この辺のことは過去記事で少し詳しく書きました。

 

◆依存は「余裕」と「らしさ」を失わせる

   お金が顕著な例ですが、こうして効率化を闇雲に追い求めるとシステムへの依存が強まります。その結果手段が目的化し、システムを維持することが至上命題となりそれが先鋭化していきます。そうなると最早いわゆる「あそび」の部分は失われ、システムに疑問を持つことも異なる選択肢を探ることも許されないような空気が醸成されます。つまり全体として「余裕」が無くなり、システムを使うはずの人間がシステムに使われているような状態に陥ります。これでは何のための効率化か分かりません。
 
   本来ものごとには「あそび」の部分があり、そこに発展の余地や自由な振れ幅、新たな選択肢の探究などが見出されます。人間も然りです。しかし効率化によって「あそび」が奪われシステムも使う人間も「余裕」が無くなっていくと、こうしたものごと「らしさ」、人間「らしさ」はものの見事に失われ見えなくなっていきます。
 
   人間らしさが保てない社会、とは果たして幸せなのでしょうか。私は疑問に思います。
 

 

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   抽象的な話に終始してなんだかまとまりのない文章になった気がしていますが、次回も続けます。

 

 
   ※お金についての話はこちらの本も大いに考えさせられます。

 

 

 

モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

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エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社 α文庫)

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