半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

巷でよく言う「電子書籍に押され気味の紙媒体」を擁護する

   前回までの記事で、行き過ぎた効率化の弊害について書き連ねました。今回もそれに類する話。
 
 

電子書籍という効率化

   スマートフォンタブレット端末の普及によって電子媒体化された書籍、いわゆる電子書籍が一般に広がってきているのは多くの人がご存知でしょう。電子書籍は従前の紙の書籍と異なり、保存のためのスペースや持ち運びの手間が必要でないためまさに効率的と言えます。私も近頃はAmazonKindle無料版や青空文庫著作権が切れた書籍の電子データが無料で読めるサービス)を利用して本や漫画を読むことがあります。
   (余談ですが、Kindle無料版をダウンロードして最近読んでいる小説の一節を紹介します。:「 … …お兄さま 。お兄さま 。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま 。 … …モウ一度 … …今のお声を … …聞かしてエ ― ―ッ … … … … 」
噂に違わぬ奇書です。チャカポコチャカポコ。)
 
   さてもう既に多くの所で指摘されているので目新しさの無い話ですが、電子書籍には紙の本が持っていた「本らしさ」というのが失われています。
 

電子書籍で気付く「本らしさ」

   まず紙でないので厚さが無いです。これは前述したように利点でもあるのですが、本を読むという行為において「自分が全体のうちどこまで読み進めたか」の把握がしづらいという事態になります。紙の本であれば、めくったページが全体のどの位置にあるかが即座に分かります。電子書籍にも◯ページ/総ページ数という表示があるので読み進めた地点の把握はできるのですが、「持った厚さで分かる」という直感的な理解ではなく単なる情報のためイマイチ実感が無いです。電子書籍を読んでみて初めて思ったのですが、「あとどれくらい読めば読み終わる」というのが分からないのは読書において小さなストレスになると感じます。
 
   一方本はその中身とそれを如何に自分の肥やしにするかが重要であって体裁は本質ではない、という議論も十分に理解できます。どのような媒体で読むかは個人の選択であって、多様なスタイルが用意されていることが「らしさ」を担保する、と言われればそういう気もします。新しいものに対する抵抗も背後に関係しているかもしれません。しかしながら、アナログな見た目や手触りといったものは視覚以外の五感も励起しアタマ以外も刺激します。人はとかく眼で見えるものや目先の即物的な事物に囚われがちなので、豊かな感性や認識を育てるには「眼に見えない部分」、効率化で真っ先に切り捨てられるような部分にも意識を向けるべきではないでしょうか。
 

◆本を置くスペースの価値

   そうした意味では本を保存するスペースというのも価値があると言えます。本棚に本を並べて置いておくという人がほとんどだと思いますが、単純に考えると場所は取るわ重たいわで部屋の中で邪魔な存在と見られがちです。これこそ電子書籍の恩恵を大きく受ける部分でしょう。しかし誰かの家を訪ねた時、その人の本棚を見ることでその人の趣味嗜好、思考の源泉を知ることができます。本棚から受けるイメージというものは「語らずしてその人の頭の中を表している」と言える存在です。逆に言うと、その人が「他人にどう見られたいか」という願望を反映しているのも本棚です。本人は意識していないものの、この本を置けば知的に見られるだとか、この分野に造詣が深いと思われたいといった心理状態が隠に作用し本棚に並ぶ本たちに反映されます。
   電子書籍は個人の持つ端末に本が格納されるので、こうした本棚の存在を無くしてしまいます。それは視覚的にはスペースの節約で効率化に繋がりますが、本棚があることによる無言の主張、「本棚が表す自分らしさ」を失わせます。
 
 
   電子書籍がどんどん普及すれば紙媒体を駆逐するのではと言われ、既にその兆候が見られる分野もあるように思えます。しかし、これまで挙げたような紙媒体ならではの価値というのも確かにあるので共存していくのではないかと個人的には考えています(そうであって欲しいという希望的観測も込めて)。紙媒体勢は電子化の波に呑まれずに今まで可視化されていなかった紙媒体の価値を積極的に提示していって欲しいものです。