半可通素人の漂流

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戦後70年の節目に「西洋政治思想史」から考える:何故私達は過ちを犯すのか

※8/18追記修正しました。

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photo by --Tico--

 

   今日は70回目の終戦記念日です。

 70年という年月は長いもので、私は直接戦争を知らない世代ですし、日本に住んでいれば「戦争」という言葉はどこか実感を伴わないものになってしまっているというのが偽らざる感覚です。しかし、人類が辿った悲惨な歴史を直視し、大き過ぎるほど大きな過ちを振り返りこれを二度と繰り返さないためにも、この節目に何を思い、何を考えるのかというのは言うまでもなく重要なことです。

 

   殊に国外では未だに戦争の火は消えず、罪の無い市民が犠牲になる悲劇が繰り返されています。かつてのような国家間のイデオロギーの対立が戦争を引き起こすのではなく、「テロとの闘い」という大義名分のもと終わりの見えない戦闘が続き、憎しみの連鎖はむしろ増大しています。日本でも集団的自衛権行使容認の閣議決定とそれに続く安保法案の強行採決に代表される動きから不穏な状況が表面化し、多くの人が漠とした不安を感じているところでしょう。人間は戦争の業火から逃れることはできないのでしょうか?

 
   「人間は繁栄よりむしろ不幸な出来事を観察することによって利益を受ける」という言葉を「西洋政治思想史」という本を最近読んで知りました。


 

概説 西洋政治思想史

概説 西洋政治思想史

 

 

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉もあります。先にも述べましたが、戦争を経験していない立場にとって戦争は我がこととして感じることが難しく、世間に流れる戦争のニュースも何か他人事のように傍観する対象になってしまっています。しかし歴史に学べば私達のような一般市民こそが戦争で最も苦しめられ犠牲になり、悲惨な経験を強いられるということを強く自覚しなければなりません。つまり当たり前ですが戦争は常に他人事ではなく我が身に降りかかってくる出来事として、それを避けるために自分は何ができるかを一人一人が考える必要があります。

 

 戦争は国家の意志として起こされ、そこに巻き込まれる個々の人々の運命を大きく左右することになります。その国家は政治によって運営されますが、前述のように個人の運命や社会のあり方を大きく左右する程の権力が政治には与えられています。ではこの政治権力とは何なのか、何故多くの国民の意に反して権力は過ちを犯し暴走するのでしょうか?先の「人間は繁栄より~」の言葉が書かれていた「西洋政治思想史」の序章「人生にとっての政治の意味」にある記述を拾うことで考えてみました。

 

◆政治への関心

   戦争を考える時、同時に政治について考えることを避けることはできません。しかし政治について語ることは特にこの日本においては敬遠されがちです。自己主張をせず、意見の衝突を避けたがる日本人の精神構造は政治に関する主張をする人を面倒臭いと感じがちです。右翼、左翼といったイデオロギー対立やネトウヨによる炎上騒ぎなどそれが時に巻き起こす過激な騒動なども政治を敬遠させるのに一役買っています(その多くはプロレスなのですが)。そして政治はどこか遠い世界の出来事であり、誰かが決めてくれるし自分は日々の生活に忙しいから特に関心を持たない、となりがちです。しかしそこに罠があります。
 
 政治の決定はまさにその日々の生活に直接の影響を与えます。経済政策しかり、税金しかり、医療福祉しかり。戦争という事態はその最たるものであり、事がそこまで進んでから慌てるのではあまりに遅すぎるのです。しかし私達はまさに歴史に学ぶことをせずに政治を遠ざけ、過ちを再び繰り返しているのです。今の状況を見ればそれは火を見るより明らかでしょう。(一方政治の側も市民に関心を持たれると都合が悪い部分が生じるという要素が多分にあるため、意図的に関心を持たないように誘導しているという側面も否定できません。しかしここでは話を明快にするためにあくまで一般市民を主体としたいわば綺麗ごと、理想論を敢えて書くこととします。)
 
 自分事として考えなければ政治は必ず牙をむきます。
 

◆「制度」と「運用」

   政治とは人々が共同生活を営む社会において個々の利害を調整し全体最適を図るために必要な制度と言えます。従って必要性に立脚して政治を行う政府が組織されているわけですが、たとえ高邁な理想を掲げ立派な政治制度が構築されたとしても、運用が伴わなければそこに生きる人々に多大な害悪を及ぼすことになります。政治について考える時、この「制度」と「運用」を適切に切り分けて考えなければ誤謬に陥ります。戦時中の日本における政治の運用が如何に誤ったものであったかは多くの人が知るところですし、戦後から現在においても目を覆わんばかりの運用の稚拙さがそこかしこに見られます。
 
 自分の利害に関わる部分の議論になるとつい感情が入り込み冷静な視点を見失いがちになるので、この「制度」と「運用」の切り分けという視点は個人的になるほどと思わされました。制度の不備は運用でカバー、という例が世の中多く見受けられるように(会社の仕事とかまさにそうですね)、誰もが納得のいく政治というのは実現ができないと思いますが運用次第でそれに近づけることができるのではないかとも思えます。
 

◆権力の問題点

   そんな政治が行使する権力について考えてみます。権力は社会における個々人の行動を規制し、権力を行使する者と行使される者の上下関係を作り出します。同時に権力とは「権力の配分についての不平等性」を前提にしなければ存在し得ないものです。「西洋政治思想史」にあるこの「権力は上下関係と配分の不平等性を前提としている」という記述は、言われてみると至極当然ですがそれだけに見逃されがちな点であるでしょう。ここに権力の問題点の源泉を見た思いがして、私はハッとしました。「権力を配分される者」と「権力を配分されない者」という不平等な関係があって初めて権力は成立し、同時にその不平等さが権力の問題点なのです。
 
   そうした点に加えて、「権力を実際に行使する者」に焦点を当てて記述が続きます。権力が戦争における殺人行為などの非情な命令を下した時、権力の下部組織に属し命令を実行する個人の道徳心がそれに勝ると考えるのは、人間心理の側面を軽視していることになると本書では指摘しています。権力の統治構造による上下関係の強い規制力のもとで服従に馴らされる個人には、「命令されてやる」ということの中に既に行為に対する責任感の希薄性が見出されます。その上組織が大きくなればなるほど各個人の任務はごく細分化されたものになるため、自分の行為自体の意味を問うという肝心なことが雲散霧消してしまうことになります。これが戦争などの極端な例において個人が非人道的な行為に手を染めることの底流にある構造です。
   「1人殺せば犯罪者、1000人殺せば英雄」などとはよく言われる喩えですが、権力が引き起こす残酷な現実が個人を翻弄する悲劇を人類は嫌というほど味わってきました。
 
   そして現在においても悲劇は繰り返され、人は過ちを犯し続けています。
 戦争における非人道的行為は決して許されるものではありませんが、行為の主体である個人の倫理や道徳心ばかりを責めるのではなく、権力によって個人が狂わされるというという事実を私達は冷徹に見つめそれを防がなければなりません。これは重い課題です。
 

◆権力の自己目的化

   国家における政治という巨大な枠組みの中では、国の定める行動規範が人々を規定することによっていわば「制度への信仰」が醸成されます。そして制度信仰には、上記のような個人の責任感の希薄化に見られるように権力への批判知を欠如させる罠があります。政治にとって危険なことは、これまで繰り返されてきたように政治が持つ権力をその保持のために自己目的化することであり、同時にそうした現象に対する批判知の欠如にあると本書は言います。権力はそれを行使する者にとっては甘美なものであり、それを保持するための強力な動機付けが働きます。
   しかし政治とは、社会において立場や利害を異にする人々の間の社会秩序を保つための営みであり、政治による社会秩序と権力による支配秩序とは明確に区分して捉えるべきと指摘されています。この点については「権力と結びついている政治=支配するもの、悪」と混同されやすいため、より強く意識される必要があると言えます。
 
 権力がその保持のために自己目的化し暴走した結果が戦争に結びつくという見方もできます。更にここで指摘しておきたいのが武力もその保持のために自己目的化するという点です。詳述は避けますが、軍需産業は武器を消費しなければ需要がないために成り立ちません。従って戦争によって武器が消費され、それによって軍需産業が儲かり維持拡大していくという非常に歪んだグロテスクな現実があります。軍産複合体という言葉にあるように、軍事が産業と結びつき権力と結びつき、こうしたビジネスの面から戦争が引き起こされるという唾棄すべき構造が動かしがたい事実として存在しています。このことも現実として私達は強く認識すべきことです。
 

◆現実を知り、考え、行動しよう

   以上のように、政治権力がもつ性質によって私達は過ちを犯し、戦争を繰り返してきました。権力の乱用に対して市民は批判の知性と抵抗の勇気をもって抗うしかありません。一方で国家という共同体が対立する時、自国を守るために武力を備えるというのも現実として受け入れなければならない面があります。平和を叫ぶだけ、憲法を掲げるだけで平和が実現するほど現実は甘くはありません。相手が殴りかかってきたら無防備の状態ではこちらが怪我をしてしまいます。とはいえまずは殴らせないというのが大前提であるのは言うまでもありません。そして自分からも殴りかからない、ましてや他人の喧嘩に加勢しないというのも当たり前の話です。
 備えは現実的対処として致し方ないとしながらも、決して武力に訴えてはならないという矛盾した状態を実現しなければならない厳しい課題を成し遂げなければなりません。
 
 「殴らせない」ということに関して、「西洋政治思想史」に書かれているように学術的には既に権力に対する多くの知見が得られていますが、現実に権力を抑止するには十分至っていません。理想と現実と言えばそれまでですが、知識の世界で得られていることと現に生きている私達の思考、行動とがもっと有機的に繋がらなければ歴史の教訓を活かしきれないのでは、と感じます。この本に書かれていることは一見難しく正直取っ付きにくいですが、序章だけでも多くの知的な刺激に溢れており、今回のような考えを進めるきっかけになりました。
 
 また現実には「灰色」の存在(過去記事残酷だけどこの世で起きていること:うさぎ!を読んで知ろう - 半可通素人ご参照)による分断統治(こちらも過去記事身近に転がっている二項対立の罠に気をつけよう - 半可通素人ご参照)が実に効果的に行われていることもあって現実はままならず、暗い気分になってしまいそうですが、まずは知ることから始まります。思考停止が危険なことはこれまた歴史が教えてくれている通りです。

 

 

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 1:45~あたりから

 立ち上がれ 死んでも譲れないものがある