話せば分かる、というのは言葉足らず
■ 話せば分かる…本当に?
巷ではよく、「話せば分かる」という言葉を聞きます。
これはある程度まではその通りです。きちんと誠意を持って話し、お互いの対立点を丁寧に紐解いて妥協点を探れば合意に至ることも可能です。議論、というととかく相手を理屈をもって打ち負かすと捉えられがちですが、実は議論とは「この人とどこで別れたのか」という点を明らかにすることなので、話をすることでお互いの理解が進むよう促す営みと言えます。
しかしながら世の中往々にして「話しても分かってもらえない」場面に遭遇します。それは主義主張が如何ともし難く対立するものであったり、立場が違うために全く折り合わないなどに起因することもあります。しかしここで扱いたいのは「そもそも相手が話を分かりたくないと思っている」という場合があるということです。
ネットで以下のような言葉を見かけました。
“世の中の「話のわからない人」の多くは、実は「わからない」のではなく「わかりたくない」人なのだと気づいた日から、かなり無用な努力をしなくなりました。 水を飲む気のない馬に水は飲ませられません。飲みたくなった時に勧めようと。ただ、その日が明日か一生来ないのかは神の味噌汁。”
“「葉隠」に同じ事が書いてありますな。
「聴く気の無い相手への忠告は悪口と同じ」
「砂漠で水を欲しがるが如き状態にするのが、意見を聞いてもらえるための条件」”
■ 相手が分かる気にならないと、ね
神の味噌汁という素敵ワードは置いておいて、このことはともすると見落としがちな視点を提供してくれます。 一生懸命言葉を尽くしているのに、どうして分かってくれないの?というのは自分の満たされない欲求を相手に押し付けているだけです。そうではなく、実は相手は分かりたくないのだ、と気が付けば違うアプローチが必要なことが理解できます。まずは話を分かる気になってもらわないといけません。自らそのための土俵をこしらえるか、相手が上がってくるのを待つかという選択肢がその次にくるでしょう。
つまり「話せば分かる」というのはいささか言葉足らずで、「話せば分かる、というのは相手が聴く気になっていないと成立しない。それがはじめからあるかどうかを見極めるべし。そうでなければ聴いてもらえる状態を作るか、待つか。」とでもなるでしょうか。
■ 実はそれ以前の問題も
また、話しても分かってもらえない場面にはそれ以前に、「話の内容が通じていない、理解されていない」というより根本的な齟齬がある場合があります。時にそんなことを経験するのですが、人はつい自分が知っていることは相手も知っていると思い込む傾向があるので、自分からすれば相手が理解不能な存在として映ります。
これは感情を害されるようなことがあった時に顕著で、どうしてそんなことをしたのか、それをされて相手がどう思うのか、人から見た時にどう見られると思うのか、といった話をしてもほとんど相手には刺さりません。そもそもそれらを理解していればそんなことはしないでしょう。理解とひらたく言っても、そこにはどのような環境で育ってきたか、どんな教育を受けてきたか、周囲との関係を自ら作り広げるような経験をしてきたか、といった人格形成の経緯が影響してきます。「育ってきた環境が違うからーあああー」と間もなく解散するグループの曲を歌って諦めるのが関の山でしょうか。
先だって挙げた「話を分かりたくない人」とはレベルが随分と異なりますが、「話せば分かる、というのはそのためのベースがあってこそ」という点はまあ共通しているでしょう。
■ 人は「利害と感情」で動くのだから
私もついつい理屈で人を判断し批判するようなことがありますが、人は理屈で動くのではなく感情で動きます。従って世の中も「利害と感情」で回っているという構造をしています。ここを忘れて、批判することばかり、分かってくれないと憤ることばかりに貴重なエネルギーを費やすのは得策とは言えません。
カーネギーが書いた「人を動かす」という有名な本にも、第1章に以下の記述があります。
“およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかなければならない。”
話せば分かるさ、とばかりもいかない世の中を渡っていくのに今回の話が役に立てばいいなと思います。