半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

「家族サービス」という社畜養成用語

Service

 

   世間は5月の大型連休の最終日。休みが終わってしまう!という阿鼻叫喚の声がそこかしこで聞こえてきそうです。

 

■「家族サービス」に感じる違和感

   連休や休日と言うと、よくこんな会話が交わされると思います。「休みの間は何をされるんですか?」「いや〜家族サービスだよ。」「ああ家庭を持つと大変ですね。」 

   この「家族サービス」という言葉、広く世間に認知された言葉であり無意識に使っていると思います。しかしふと考えてみると、一つ屋根の下で暮らす自分にとって最も身近な間柄である家族が、何故「〜してあげる」という「サービス」の対象になっているのでしょうか?私には少し違和感の感じられる組み合わせです。蛇足ですが、確か政治経済の授業で消費は財とサービスとに分けられると習ったような記憶がありますね。

   ここで感じる違和感に関しては、前提として「家族に対するスタンス」と「サービスという言葉が何を指すと捉えているか」が問題になります。簡単には、家族は対等で利害関係の無い存在であるはず(少なくとも、そう思いたい)です。そしてサービスとは、何らかの奉仕行為を相手に対して行い、その対価を得るというイメージです。ここにはサービスを提供する側と、それを受け対価を支払う側という利害関係が生じます。

   つまり私の感じた違和感を紐解くと、「利害関係の無い家族に対して利害の生じるサービスを行うという矛盾」という構造に辿り着きます。しかしここで無償の奉仕もあるでしょ、という突っ込みどころがあることに気が付きました。サービスという言葉に対する解釈が経済活動に偏っているきらいがありますが、話をここで終わらせたくないので多少無理筋ですが続けます。

 

■ 背後に透ける日本の問題

   家族サービス、つまり家族に対してサービスをするという状況についてもう少し掘り下げると、平日は仕事仕事で忙しく帰りも遅いので家庭はないがしろ、従って休日は家族に対して自分の時間をサービスしないとバランスが取れないし家族との関係が…という日本の給与所得者の姿が浮かんできます。近頃盛んに取り沙汰されている長時間労働という日本が抱える問題点がこの言葉の背景にあるのです。本来は企業に対して労働力をサービスして給与という対価を得ているのに、仕事が自分の中で主となり、家庭が従として「サービスしてあげないと」と思わせる矛盾した心理状態。

   前回の記事(「車が突っ込んだ事故」と先入観 - 半可通素人の漂流)で先入観について取り上げ、先入観が作られたものである場合もあるよという話をしました。この「家族サービス」という一見カジュアルな言葉も、上記のような仕事>家庭という価値観の転覆を無意識下に刷り込ませる社畜養成用語なんじゃないの?という気すらしてきます。この言葉を考えたのが広告代理店とかだとしたら恐ろしいですね。茹でガエルにはなりたくないものです。

 

   かつての高度経済成長期には、家庭を犠牲にして仕事に邁進することで社会全体が成長していったという経緯がありますが、もはや過去の成功体験は通用しません。あらゆる制度疲労を起こしている日本社会を象徴するような言葉として、多少の飛躍はありつつも家族サービスという言葉を社畜養成用語とまで形容して槍玉にあげました。

   あなたはどう感じるでしょうか?

 

The businessman (aka Today it's been a long day at work)