批判を批判する:みんなは私であると同時に、私はみんなである。
世にはびこっている「批判」について。
ある対象について、「それは自分の考えと違うから」と批判して溜飲を下げるという光景を私たちはしばしば目にします。
しかし、その一点のみの視点から感情的な批判を行うだけでは、自分にとって都合のいい情報のみ摂取して踊らされる集団に成り下がります。
その批判するエネルギーを、自分をその考えや立場たらしめている要因や構造を変える方向に向ければいいのに。と私はそう考えます。
もしくは、「それでは〜の人が可哀想」、といった他人の立場を利用しての批判も日夜溢れかえっています。自分が気に食わないからといって、自分とは関係のない「誰か」をダシにして批判するのは筋違いです。
あるいは「〜の友人がそう言っていた」という類の批判。それは個別の事例に過ぎず、賛否両論があるのは当たり前です。またこの場合、私という主体を存在させないことで責任を回避しているつもりになっています。ではそこにおけるあなたは一体誰なのか?どういう立場なのか?
こうした文脈の批判では、自分の立場を「みんな」と一般化した何者かに憑依させていますが、それって特定の誰かではないのでしょうか。みんなって誰?みんなは私であると同時に、私はみんななのです。
考え付いたことをさほど脈絡もないままに書き散らかしてみました。
全て自分にブーメランとして返ってくることばかりです。