黒子のバスケ脅迫犯はあなたのすぐそばにいる (1/2)
◆黒子のバスケ脅迫被告の意見陳述
少し前の話ですが。
【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない | かみぷろ
長い記事だけどTV等で報じられているイメージとあまりに性質が違う事件と分かる。日本もここまで狂わされているのか…:【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない http://t.co/eMO5iqkFhx
— 半可通素人 (@hnktusrot) August 31, 2014
大袈裟に言うと「私達は創り創られて人間になる」という過程を捉えないと同じような根っこの犯罪は増えていくのだろうなあ。親が子の自己肯定感を育ててあげないとこうなる。愚民化策もここまで及んでいるのかという感じも:黒バス脅迫事件最終意見陳述http://t.co/eMO5iqkFhx
— 半可通素人 (@hnktusrot) August 31, 2014
上記リンク先の「かみぷろ」では、渡邊被告の最終意見陳述について、ロジカルであるとか、客観的な分析と文章構成力、そして言語感覚などと評しています。
私も読んだ当初は同様の感想を持ちましたが、しばらく考えた結果、異なる考えを持つに至りました。
確かに分析力や文章構成力には目を見張るものがあります。また「埒外の民」、「無敵の人」、「キズナマン」、「人生格差犯罪」など扇情的な言葉が並んでいます。読ませる力は圧倒的です。
◆ 一見ロジカル、だけど…
しかし、この文章は私が見るに「典型的な受験秀才が書く文章」です。
言葉を操る力は巧みだし、論理展開も優れているように見受けられますが、これを読んでも肝心な「像」が浮かんできません。
像が浮かんでくる文章とは、例えば次のようなものです。
“夜中のコンビニ配送の仕事をしていた、そんなある日のことだ。
繁華街の店に納入の時、ヤクザの親分さんが若い衆数人つれて店から出てくるところだった。
俺は目をあわせないよう顔をふせ、荷物を積んだ台車を入り口近くにとめた。
店の入り口は階段になっているので、そこから手運びしなきゃならない。
と、親分さんが若い衆に振り向き、
「おい!」
若い衆は俺に近づくと搬入する荷物を店内に運び入れ、俺の顔を見て一斉に
「ご苦労様です!」ヤクザさん有難う。”
例えが悪くてすみません。しかし、像が頭の中にありありと浮かんできたのではないでしょうか?一方、渡邊被告の文章を読んでもどこか冷めた印象を拭えず、「無敵の人」などのありありとした実体がイマイチ描けません。自分のした行為を自分のこととして捉えていないことが文章に滲み出ています。
◆「即自」「対自」で捉えてみる
ここで哲学の視点からこの文章について考えてみます。
哲学、弁証法には「即自対自」という言葉があります。
そく じ [1] 【即自】 〔ドイツ an sich〕
つまり、即自とは自分と他者を区別できず、対自とは自分を他者から見た対象として区別できる状態です。
渡邊被告の主張は自己完結に終始しており、極めて即自的です。他者との関係を築くことができない人物として苦悩する様子が手に取るように分かる痛々しい文章です。
◆さらにもう1つの病根
もう1つ、「自己肯定感の欠如」も大きな病根です。自己肯定感とは、自分は自分でいいと思える感覚。この世の中にいて良いし、愛されるべき存在なんだという感覚のことです。
カウンセリングサービス■心理学講座「自己肯定の心理学(1)〜自己肯定は大切?〜」
自己肯定感の低い人間は他者と関係性を構築することが困難で、社会生活を営むうえで大きな障壁を抱えることになります。そして自己肯定感は他者、特に親によってしか植え付け、育んでもらえることができません。
渡邊被告の親に対する記述を見れば、彼がどのように育てられたのかが一目瞭然です。本人にはどうすることもできない問題で、他者が手を差し伸べなければ救いようがありません。せめて学校の教師にでも気付いてもらえれば…。
◆いったんまとめ
まとめると、これは親によって自己肯定感を育んでもらえなかった1人の人間が、「私はここにいるよ」と血の涙を流しながら必死に叫び、訴えている文章なのです。自己を否定し、その延長にある他者と社会を否定しています。
ちなみに私は「黒子のバスケ」を読んだことはありませんが、渡邊被告が自ら起こした事件によって結果的に「黒子のバスケ」の知名度をあげ、恨みを持った作者を利することになったのは皮肉としか言いようがありません。
また、アニメ愛好者が潜在的犯罪者というイメージを植えつける格好の材料とされていることにも注意しなければいけません。神戸の女児誘拐事件も然り。
もちろん、犯罪は許されることではありませんが。
◆最も恐ろしいこと、でも…
そして 恐ろしいのは渡邊被告の犯行が「自分が脅迫事件を起こしたのはたまたま。秋葉原通り魔事件と自分との違いは、たまたまその瞬間に思いついたことが違っただけに過ぎません。」と語っているところです。
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述3 事件を起こした動機(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
つまり通り魔にならなかったのは偶然ということです。
現在の日本において、渡邊被告のように自己肯定感が著しく低く、格差構造に苦しめられている人々は数多く存在します。この「黒子のバスケ事件」および裁判での最終意見陳述は、いわば犯罪者予備軍が社会に普遍的に存在していることを示唆する点でこれまでの犯罪とは一線を画しているように思えます。
過度に怖がる必要はありませんが、社会、教育の在り方について、日本は引き返しのきかないところまで来てしまっているのでしょうか。
希望はまだ捨てたくありません。
ブログを始めてずっと書きたかったことの1つがやっと書けた。
続きで少し補足を書きました。