半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

書くこと=感覚を濾過していくこと(その2)

 

◆人に教えるのも書くことと同じ原理

 前回、「書くことは思考から感覚という曖昧なものを濾過し、文字という客観的な情報に落とし込んでいくこと」として、自分がものごとを理解することと、それを人に教えることが異なるのも同じ原理であると書きました。
 
 理解する対象が何であるかにもよりますが、自分がものごとを理解する時、自身の五感や感情も理解する過程で材料として使われます。例えば料理を作ることを習う時、レシピの文字を見ただけで作れるようになる人はあまりいないでしょう。ほとんどの人が実際に材料を手で切り切り方を覚え、火にかけ目で火の通りを確認し、味付けをして舌で鼻で味見をし、美味しくできたら嬉しい感情、失敗したら悔しい感情を覚えます。そしてその過程を通して料理を作るために必要な手順を理解し、体得していきます。
 

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photo by hans s

 

 これを人に教えようとすると、感覚をそのまま相手に知覚してもらうのは不可能ですから、言葉で自分の感覚を含めた理解を伝えて実際に体験してもらい、相手の感覚で体得してもらわないといけません。この時「自分の感覚を含めた理解→言葉→相手の感覚を含めた理解」の変換が上手くいかないと教える側も教えられる側も不自由を感じることになります。

 言葉は文字の音声化なので、文章と同じことが起こるのです。

 

◆書くことは制約を背負っている

 こうして例を挙げてきたように、私達は書く時に「思考という膨大な情報を含んだ対象」を「文字という情報量が非常に限られた媒体」で表現しないといけない制約を負っています。この制約を補うために会話を行ったり、図を付けたりして情報量の増強をはかっています。会話は言葉の他に相手の反応に合わせた応答、感情の表現、身振り手振りなどを伴うので文字に比べると効率的な伝達手段です。
 ざっくりと情報量の多さで順序をつけると、「会話>動画>画像、絵、図>文章」となっています。
 
 書く時はこの最も貧弱な武器で闘わないといけないのです。ああ辛い。
 
更に続きます。
 
 
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