使い勝手を優先すると責任感が劣後するという話
先日、環境を優先すれば使い心地が劣後するという話 - 半可通素人という記事を書きました。アイドリングストップで乗り心地がイマイチになって使い勝手が悪いという話でしたが、では使い勝手を追求するとどういう面が現れるかという例について。
かつては車を動かそうとすると、鍵を差し込み前方にひねり、エンジンが始動するまでひねった位置を保持していました。それが近年は、鍵を携帯していればブレーキを踏んでエンジンスタートボタンを押すとエンジンがかかる車がほとんどです。
これは機械的な鍵を使わずにドアの施錠、解錠を可能にするスマートエントリーと共に2000年代中頃から採用され始め、今では一般的な乗用車のほとんどに搭載されていると言っても良いでしょう。
ボタンを押せば車が動くのは手軽で使い勝手の向上に寄与しています。この手軽さはさも家電の電源をスタートボタンで入れるが如くです。しかしその反面で、こうした手軽さが「車を運転することに対する責任感の希薄化」に繋がるのではないかと感じます。
車は便利な乗り物です。しかし一度事故を起こせばその影響は大きく、人命に関わることもあります。運転者にはそうした負の側面を十分に認識したうえで責任感を持って運転することが求められます。かつての鍵を回すエンジン始動方式には、鍵を回す行為がいわば「これから運転する」ということの始めの儀式のように感じられ、思えばその一手間で気持ちが切り替わるような感覚が伴いました(私だけ?)。今のエンジンスタートボタンでは「ポチッとな」だけでエンジンがかかってしまうのであまり「これから運転する感」が湧きにくいです。小さな動作一つですが、意識無意識下でその違いは影響してきます。
個人の感じ方次第といえばそれまでですが、使い勝手を追求するあまりに重要な使用者の責任感にまで考慮が及んでいないような風潮を感じてしまいます。それを言い出せば、変速機構がマニュアルからオートマに変わった時点で運転の難易度が下がって手軽に運転できるようになったという点も挙げなければならないでしょう。オートマは簡単に運転できるだけに、車をおもちゃ感覚で運転してしまう人が増えたようにも思われます。
製品の普及を考えれば、操作の難易度を下げて使い勝手を向上させることが普及に繋がるだけに、どこでバランスを取るかが難しいところです。