半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

社会の窓がどんどん小さくなっていると思う

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   また途絶えないうちにブログ更新。今回は抽象的なことを書きます。
 

◆「社会の窓

   ある時からふと、人々が世界を切り取る、その窓がどんどん小さくなってきているのでは?ということを考えるようになりました。「世界を切り取る窓」、ここでは分かりやすく一言で「社会の窓」と言い換えることにします。それは私達が外の世界の情報を得る時に、何を通して見ているかということに思いを馳せてみると気が付くことです。テクノロジーが高度に発達した現代、先進国においては殆どの人の手にスマートフォンが握られ、そこから驚く程大量の情報を得ることができます。いわば我々は「スマートフォンという窓」を通して世界を覗いていると言えるのではないでしょうか。そしてその窓の大きさは手のひらに収まる程小さいものです。
 

◆窓の変遷

   これが文明がおこる前まで遡ると、人々は自分の目で見た光景そのままでしか世界を認識できませんでした。「窓」という概念も当然存在していません。また直接その場に身を置いて見たものでしか情報としては得られず、情報量も相当限られていたでしょう。その後文明が発達し文字と紙が発明されると、紙に書かれた文字という形で多くの情報が記録、閲覧されるようになります。交易も活発になると、遠く異国の地のことも手紙や書物を通じて知ることができるようになりました。こうして「紙という窓」によって世界を切り取っていった、ということが言えると思います。今でも本というのが情報媒体として確固たる地位を築いているのは言うまでもありません。そして行間を読むという言葉があるように、文字を読んで想像を巡らせればそこから世界はどんどん広がっていきます。

   更に時代が進むと、テレビが登場します。それまでの文字だけの情報に加えて今度は映像が加わり、それによって伝えられる情報量は飛躍的に増大しました。しかし私達が見ているのはテレビの四角い画面だけで、その小さい窓によって切り取られた絵として世界を覗いています。加えてそこに流される映像は作り手によって決められており、私達が得る認識もそれによって規定されるという構造があります。この「受け身な社会の窓」という部分は普段意識することは少ないですが、その分注意する必要があるでしょう。

   それから現代になってパソコンとインターネットが普及、これにより世界中が繋がり、そして携帯電話、スマートフォンの登場…となります。画面が小さくなる一方で得られる情報量は膨大になっていくという流れは、もはや説明する必要が無いでしょう。

 

Window

 

◆窓の大きさと情報量が反比例

   ここまで抜けているところも多々あると思いますが、かなり大雑把に「社会の窓」の移り変わりを見てきました。お分かりの通り、窓の大きさはどんどん小さくなっていき、それに反比例して情報量が爆発的に増加していっています。便利だなと思う反面、私達がその目で実際に覗いている「窓」は狭くなっていく一方ではないでしょうか?世界の見方としてそれだけに依存するのは妥当でしょうか?

   電車の中や街中では、ふと冷静になると驚くほど多くの人がスマホの画面と睨めっこしています。まるでそうすることが義務であるかのような強迫観念すら感じてしまいそうな勢いです。と同時に、その窓の小型化と並行するように、思考する時間を放棄しているのではと思えてきます。情報は与えられる一方で、その恩恵にあずかりながら受け身に慣らされ過ぎてはいないでしょうか?

   窓は小さいけどそこから見える世界は広い、けれど実は広く見えているだけで限定された世界ではないのか?と思うこの頃です。

 

   結局のところ、某そんじゃーねの人が言っているように「自分の頭で考えよう」という至極当たり前の結論に行き着く訳ですが、身近な切り口から感じるところを書き散らかしてみました。「社会の窓」というと一般的にはアレのことなのでタイトルで釣っている感が見え見えなのはご容赦ください。

   このブログもパソコンやスマホの画面を通して読んでいただくことになるのですが、ふと画面を離れて考える題材を提供できるような内容をお届けしたい、と常々思っています。