半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

「頭が良い人」の構造

   頭が良い人になりたい。

 

◆「頭が良い」ということ

   先日、中学校の恩師と久しぶりに食事をする機会がありました。この恩師は「感動に余韻を」をモットーにしたり、クラスを文化祭の合唱コンクールにガチで取り組ませて金賞を取らせてくれたり、「情けは人の為ならず」の意味を説いてくれたりと様々なことを教えていただいたのですが、中でも印象に残っているのが「勉強ができるやつは沢山いるが、本当に頭が良いやつは少ない」という言葉です。
 
   世間一般には「頭が良い=勉強ができる」というのが共通認識です。誰かと会話をしていて「頭が良い」と言う時はほぼ「勉強ができる」ということを指しています。しかし、恩師の言うように「頭が良い」というのは勉強ができることと等価ではないというのが私の考えです。
 

   頭が良いというのも多面的な要素を含んでいるので一概にこれと言い切れませんが、本当に頭が良いと感じるのは1を聞いて10を理解したり、回転が速く先の見通しを立て前もって手を打てたり、深い教養と洞察力を持って物事に柔軟に対処し人に大きなプラスの影響を与えられたりといったことだと思います。頭の出来がそもそも違うというか、「この人はすごい」と心の底から感じられる人はなかなかいませんが、このように頭が良い人にはおいそれと巡り会えません。

   知的な人には魅力を感じます。痴的に知的な人も時々いたりするので世の中わからないのですが。
 
 

◆勉強ができるやつは沢山いる

   一方で、勉強ができる即ち試験で高い得点を取れるという人は沢山います。日本の教育は決まった答えを如何に短時間で導き出すかを重視し、受験を突破することを最優先課題としていますので、そうした訓練を受けた結果勉強ができる人が大量生産されます。何も知らない子供は「試験で良い点を取って良い学校、会社に入ることが幸せになる方法」と教えられ、皆がそれに向かって努力をし、実際に学力によってふるいにかけられます。
 
   これまでの日本社会は敗戦の記憶から経済成長へ一直線に社会が向かって行ったので、上記の教育方針によって横並びの勤勉な国民が一丸となって働くことで驚異の復興と経済大国への脱皮を果たしました。
   しかし今、様々な社会の矛盾や綻び、課題が噴出しています。私達はこのままで良いのでしょうか?
 

◆人生に必要なことは学校で教わらない

   複雑に発達した社会では共通の目標というものを見出しにくく、答えのない問題があちらこちらに存在します。そうした中で必要となるのが「答えのない問題に取り組み、出来るだけ全体最適に近い答えを合意形成して実行できる」力です。
   こうした力は教育では教わりません。大学まで受験突破のため必死に回答作成能力を磨き、大学に入ると急に自主性が大事だと言われ卒業要件の緩いモラトリアムを過ごし、いざ社会に出ると答えのない問題を解決するように求められます。これでは社会として歪ではないでしょうか。
 
   過去の成功体験に囚われた層は今さら引き返す訳にもいかず、これからの社会を担う私達が勉強以外の「頭の良さ」を磨き、次の世代にも育てていかないことにはどうにもならない社会が現代だと思います。