半可通素人の漂流

哲学から魚のお話まで。半可通素人が書き散らかすネットの海を漂流するブログ。

飛ぶことの先にジョナサンは何を見るのか:「かもめのジョナサン」を読んだ(その3)

 
   前回までで「かもめのジョナサン」についての感想を書いたつもりだったのですが、書き忘れていたことがあったのでしつこく3回目です。(※物語後半部分のネタバレがあるので、本の内容をまだ知りたくない方はこの記事はそっと閉じて是非本を読んでみてください。)
 
 
   物語の後半から、ジョナサンは同じ思想を持つ仲間と出会い、自分達が到達した高みを他のカモメにも教えようと自分を追い出した群れに戻っていきます。この辺りから話がスピリチュアルな方向に展開しだします。しまいには己の肉体という束縛を乗り越え、瞬間移動や死んだカモメの蘇生までやってのけます。ここまでくるともうカモメ関係ないじゃん!という話ですが、筆者はこのような一種荒唐無稽な話を通して何が言いたかったのでしょうか。
 
   恐らくは、「肉体というのは精神の入れ物に過ぎず、思考し自由を求め理想を追求する精神活動こそが存在の価値なのだ」ということを言いたいのだと思います。精神の高みを極めれば肉体を離れて遠く離れた場所に瞬間移動できるというのはいささかぶっ飛んでいますが。
   「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉がありますが、これも肉体という物質面では人間も葦も変わりはなく、考えるという精神面が人間を人間たらしめているのだということを表した比喩という解釈ができます。また最近このブログで取り上げた攻殻機動隊でも、肉体が機械で交換可能でありその意味を消失した世界において、「人間が人間であるために必要な自我や意識、思考=ゴースト」が重要な概念として描かれています。
 
   このように、自由を求めたために群れを追放された一羽のカモメを通して、普遍的な「思考する自我、自由な精神こそが我々を我々として存在させているものだ」というテーマを盛り込んだ哲学的な物語としてこの作品を読むことができます。
 
   そしてこの本の巧妙なところは、前半部分はジョナサンの試行錯誤と変わることに否定的な群れのカモメを描いて一見のどかな寓話のような雰囲気を出し油断させておいて、後半に肉体の超越や精神の高みという取っ付きにくい内容を持ってくる構成にあります。始めから精神がー!とか書いてしまうと、おそらく一定の読者が引いてしまうことを見越しているかのようです。このことは、この本に安易に感化されて飛ぶことの先にジョナサンは何を見るのか:「かもめのジョナサン」を読んだ(その2) - 半可通素人でも書いた扇動的な革命思想に導かれてしまう可能性を含むものです。その点改めて意識して読むことが必要かと思います。
 

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photo by melfoody

 

   話は少し変わりますが、小学生の時国語のテストでよく「この時の主人公の気持ちを答えよ」とか「ここで筆者は何を言いたかったのか答えよ」という設問がありました。そんなの答えて何の役に立つんだと思った記憶がありますが、まさか時を経てブログで筆者の意図を書くことになるとは思いませんでした。何が役に立つのか分からないのでやはり義務教育の勉強はしっかりやっておいた方が良いですね。

   いくつになっても人の気持ちが分からずに失敗ばかりしていますが。