アンパンマン、この哲学的なアニメ(その2)
昨日の記事に続き、アンパンマンの話題を広げます
アンパンマンに大人も考えさせられる哲学とやなせたかし氏の深遠な思想が込められていることは昨日書いた通りです。作者が作品に込めた想いを知ることは、その作品を更に深く知り魅力を味わうために不可欠なことと言えます。しかし解釈は人の数だけ存在し、世の中には自分では想像もしなかった思考を持つ人がいるものです。
これまたネットで見つけた文章ですが、私と同様アンパンマンに哲学を見出す人がいました。と言ってもその思考は私のような凡人とはおよそ異なり、興味深いものです。
曰く、
- アンパンマンの顔を食べる行為はカニバリズムであるが、日本の子供たちはこの光景に何ら違和感を持たない
- 「僕の顔を食べなよ」というのは美しい自己犠牲だが、それは「食うー食われる」という生命の本質に反したニーチェの批判するキリスト教的行為である
- 顔ごと取り替えるという設定は、生命の本質は物質ではなく、それゆえに身体は取り替え可能なのだという寓意を表現している
作者の意図からは逸脱した解釈のため人によって印象は異なりますが、アンパンマンひとつからここまで持論を展開できる知識の幅広さ、文章構成力に感銘を受けます。これが教養ってやつか…。
特に3点目の「生命の本質は物質ではなく、それゆえに身体は取り替え可能」という概念は、私が最近取り上げた「攻殻機動隊」と「かもめのジョナサン」にも描かれていることであり、ここでも共通のものが見出せるということにいささか驚きを禁じ得ません。生命と物質を分かつもの、あなたを保つものは精神活動にあるという主張。(ここに関して、哲学では唯物論と観念論という大きく対立した考えがあります。生命の本質は精神にあるというのは観念論に基づいた主張になりますが、この辺をやりだすとまた長くなるので稿を改めて別の機会に譲ろうと思います。)
そしてこうした人の考え、文章に少し検索しただけで触れられるというネットの存在。これは個人の知にとって大きく革新的な出来事であるということを改めて感じるわけです。(関連:「知らないこと」の壁は高くて厚い - 半可通素人 / ネットが可視化する「低学歴の世界」の怖さ - 半可通素人)
私が書くこのブログは誰かに新しい視座や知的な興味、面白い文章をお届けできているでしょうか…?
確かに何度やられてもへこたれない、手の込んだ機械を作ってくるのに何故か弱い、食パンマンに想いを寄せるドキンちゃんに切ない片想いをしているなど、どこか憎めないキャラクターです。そして赤ちゃん時代のバイキンマンはかわいい。
そしてやなせたかし氏がバイキンマンに込めた想いは、「正義って相手を倒すことじゃないんですよ。アンパンマンもバイキンマンを殺したりしないでしょ。だってバイキンマンにはバイキンマンなりの正義を持っているかもしれないから。」というものです。ここにもアンパンマンの哲学が貫かれています。
最後におまけです。